花粉症のなおしかた



02:リヴァイ、つかむ。



調査兵団の食事場所からそう遠くない廊下を、ゆったりとした歩幅で歩く、少し背の高い人物がいた。茶色い髪の毛を揺らすその人はガスマスクと目元の見えないゴーグルを装着しているが、服は調査兵団のものに間違いなかったので、この人は調査兵団の一員である。そんな人物とすれ違う兵団員全員が、彼を視界に入れて驚き固まった後、振り返って二度見し、すぐに笑顔になる。そして口々に、今日はいいことがありそうだと笑いあうのだった。
その様子を見ていた新米調査兵団員のジャン・キルシュタインは、謎のマスク男が現れた後、波紋のようにすれ違う人がほぼ全員笑顔になっていくことが全くもって理解不能だった。あれは一体何者なのか。それでつい、近くに立ち止まっていた同期のコニー・スプリンガーに尋ねるのである。

「おい…あれ、なんだ?」
「はぁっ?!バッカ野郎!おまえ、知らねぇのかよ!ヤバイ!ヤバイって!こんな近くで見れるなんて!すげーラッキーだよ俺ら!」

そして後悔した。コニーは興奮していて、支離滅裂な言葉を吐き、さらにはジャンの背中を一発叩いたのである。目を爛々と輝かせ、ガッツポーズして喜んでいるコニーの様子は、普段だったら馬鹿なやつだと素通りできるが、この時ばかりはジャンは気味の悪さを覚えて、背中を叩いたことを咎めるタイミングを失ってしまった。ラッキー?あのガスマスク男が歩いているのを見ることと、幸運になることに、どんな因果関係があるのか。さっぱりわからない。ジャンは背中をさすりながら何も言えずに、コニーの興奮っぷりにドン引きしていると、後ろから声がかかった。

「あの人は、。補給班長だよ」

後ろに立っていたのは、アルミンとミカサだった。ジャンに話しかけてきたアルミンはもちろん、驚くことにあのエレン一筋なミカサでさえも、どこか浮き足立ったように頬を綻ばせている。可愛い。ジャンは混乱した頭の中で、ミカサの表情の柔らかさに心拍数が少しだけ上がるのを感じていた。

「ミカサは、知ってるのか?」
「あの人は、調査兵団の、ラッキーアイコン。…ジャン、知らないの?」

ミカサが呆れたように言う。調査兵団のラッキーアイコン。ここまで聞いて、ジャンは思い当たる節があった。

調査兵団は300程の人員しか居ないため、替え刃やガスボンベの補給、あるいは立体駆動装置のメンテナンスのために割ける人員は少ない。そのために本部に併設する形で、補給部隊は設置される。しかし補給部隊も巨人と戦わない訳ではない。補給部隊は本部で物資の補給などを支援するのが主だが、人の集まるところには必ず巨人が寄ってくる。かといって補給部隊を点在させることも、かえってリスクを高めかねない。故に、補給部隊は作戦の如何によっては最後の砦にもなり得る上、補給部隊だけでなく本部を守るために動くことが多いため、命を落とす者は半数を超える。そうした特異性もあり、補給班の隊で慢性的な欠員が続いていることは、調査兵団の悩みの種であった。

その状況を打破したのが、。彼は4年前には2、3割しか生き残れなかった調査兵団の生存率を、彼が調査兵団の補給部隊に所属するようになってから、たった2年で倍以上の6割にまで引き上げた功績を持つ。

加えて、彼に関する英雄的な逸話は、片手では収まりきらない。なぜならば、現在生き残っている調査兵団のほぼ全員が、彼の補給の恩恵に預かったことがあるからである。そして彼に出会った者は、口々に言うのである。「彼がいなかったら、今ここに居ない」と。その者たちに生き残れた理由を尋ねれば、殆どの者がガスの供給と今後の動きの指示を受けることができたからだ、と語る。

彼は80キロ近くある補給用のガスボンベを背負い、立体駆動装置を操って戦火の中を駆ける。一般人がガスボンベを背負うことは普通無理である。兵士はガスボンベを背負うことはできても、走り回ることは難しい。班長クラスの者たちでさえ、ガスボンベを背負い立体駆動装置で移動するには相応の技術と経験が必要になる。にもかかわらず、はガスボンベを背負い、さらには巨人の攻撃を躱しながら、戦場に散らばる兵団員達に補給をこなしていく超人的な肉体を持つ人物なのである。さらには、殆どの兵団員のガスボンベ使用率を掌握しているとしか言いようのないくらい、補給する際にほぼ正確に残量を言い当てると言う。それだけではない。彼は補給を終えると、その兵士に問いを投げる。本部に戻る道と別の班に合流する道、どちらを知りたいか、そう問うのだ。そしてどちらを進んでも、兵団員は生きて帰ってくる。さらにはどちらも選べないほど憔悴し、傷ついた者であっても、彼はガスボンベをその場に躊躇なく捨て、その者を本部まで送り届ける。そしてその落としたガスボンベを起点に、また他の兵団員の元へと駆けつけていく。こうしたの活躍によって、大なり小なりの怪我はすれど、生存したまま多くの調査兵団の兵士が、壁の中への帰還を果たす。

極めつけに、なにより忘れてはならないのが、は四六時中フルフェイスのマスクとゴーグルを装着していることである。夜空を凝縮した黒のマスクは、馬の口のように突出している。そしてその部分に、縦長の卵に似た形状の袋が、左右に一つずつとりつけられている。一度見たら忘れられない重厚なガスマスクを身につけ、目元の見えない大きなゴーグルをしている、一見したら不審人物のような容姿であるために、人でない説すら持ち上がったこともある。そんな噂が立つほど、誰も彼の素顔を見たことがない。だが逆に、他の兵士にはない特徴を併せ持った容姿のインパクトが、命を救われた兵団員達にとって忘れられない記憶の一部として刻まれ、不特定多数に語られていく。

このように、彼が調査兵団のラッキーアイコンと言われる所以は、その圧倒的な実力とわずか2年で築き上げられた成果、兵団員達から寄せられる絶大な信頼、加えて彼のガスマスクとゴーグルという特徴的な容貌が、その特異な逸話の広がり方に拍車をかけていた。 上記の彼の話を知る者は調査兵団に限らず、駐屯兵団や憲兵団の中にも数多く存在する。そしてその噂は、もちろん訓練生の耳にもしっかりと届いている。しかし一端の訓練生が彼を目にする機会なんてあるはずもなく、毎日の訓練の中でそうした話が槍玉に上がることは滅多になかった。そのため、殆どの訓練生は彼のフルネームすら覚えていないのが普通である。

「えっ!マジ?!あれがあの噂のラッキーアイコン?!」

ジャン自身も、彼の話を耳に挟んだ時は、そんな化け物じみた人間がいるのかと、畏怖の念を向けたものだった。だが同時に、その嘘みたいな噂話を鵜呑みにして盲信するほどのことではないとも考えていた。そのためにジャンは、彼の名前だけでなく、奇抜なラッキーアイコンの特徴まで忘れていたのである。ミカサの一言で忘れかけていた記憶が掘り起こされたジャンは、そんな噂の人が実在したことに驚き振り返るも、もうガスマスク姿の人物はどこにも見えなかった。

「そうだよ!僕たちはまだ壁外調査に行ってないから見たことなかったけど…壁外調査で補給班長に会えた人は、必ず帰ってこれるって言われてるくらいなんだから」

アルミンがまるで自分のことでも話すように得意げに言う。それほど、という人物を尊敬している様子が伺える。

「俺も聞いたことあるぜ。あの人、調査兵団使ってる立体機動装置のガスボンベ全部、一目見ただけで残量わかるって」

アルミンに賛同するように続けたのは、コニーだった。キラキラと目を輝かせる姿は、ヒーローを見る子供の目となんの変わりもない。しかしジャンは、コニーの発言の内容のほうが理解できなかった。

「は…?嘘だろ。調査兵団のガスボンベなんて、いくつあると思ってんだよ」

数百人居る調査兵団では、普通ガスボンベは両足に2つ着けるのが限界だ。それ以上着けると、重みが脚に集中し身体への負荷が増えるだけでなく、巨人と対峙する時の俊敏性を確保することが出来なくなる。そのため調査兵団所属の一兵士の持つガスボンベの数は少ない。だが、調査兵団全部となれば、補給用の予備も含めると軽く数千は越える。その全てのガス残量を掌握しているなど、あり得ないのだ。

「いや噂だから。俺も本当か知らねぇよ」

もちろん、コニーとて分かっていた。尾ひれのついた噂は、鵜呑みにするほうが危ない。その危険性は皆、一様に分かっていた。

「でも、もし本当だとしたら…」

それでも噂の真偽に近づいてみたいと思うのは、少年少女達にとっては別段特別なことではなかった。だからこそ、アルミンも仮定の言葉まで持ち出して話題を続けようとする。

「おい」

しかし、アルミンの言葉は途中で遮られる。低いテノールが空気に波紋を呼ぶ。その振動は集まっていた4人の心に驚きの感情を呼び起こすには十分すぎた。

「!」
「り、リヴァイ兵士長!」

神経反射のように、素早くコニーとジャン、アルミンは慌てて左胸に手を当て、敬礼する。調査兵団の団服に身を包んだ、普段と変わらない人類最強がそこにいる。

「いい。直れ」
「はっ!」

敬礼の動作がワンテンポ遅かったミカサだったが、直るのが一番早かったのもミカサだった。おそらく意図的にやっている。そのことにリヴァイ兵長が気がついているとジャンは分かったが、リヴァイ兵長が特に何も言わないので敢えて黙っていることにした。そしてリヴァイ兵長の右手に、謎のちり紙が大量に入っているゴミ箱が抱えられていることが謎であったが、それを問えるだけの度量がある者はここに居なかった。

「お前ら、ハンジを見なかったか」
「え?」
「いえ、見ていません」

戸惑う他のメンバーを尻目に、ミカサがすかさず答えた。リヴァイ兵長はそれを一瞥する。

「チッ、」
「ねえ、君たち」

舌打ちをし、あからさまに怒りを露わにして普段より2割増の皺を眉間に寄せる彼の背後に、人が控えていることに4人が気がついたのは、第三者の少し鼻声な呼びかけの言葉が耳に入った時だった。一行の中でそれなりに背の高いジャンやミカサでさえ見上げるほどの大男が、そこに居た。この男、猫背気味であるために、丸めた背を伸ばしたら廊下の天上に迫るほど大きいのだが、この事実に気がつく余裕など4人にはない。

「なんだか賑やかだったけど、何かあったの?」

オールバックの茶髪に、パジャマ姿の男。少し大きな鼻と垂れ目気味な目の目尻を赤く染めており、あまり覇気の無い鼻声を出したその男は、ぬっとリヴァイの背後から前に出た。優しくのんびりとした口調でアルミンに話しかける。2メートル近くありそうな身長の男は、なまじ体格が良い分巨人のようである。その癖、白とピンクの可愛らしい細めの縦ストライプパジャマを纏っているため、見た目こそチグハグだが、巨人でなく人間として認識することはできた。だが、パジャマ男が視線を合わせようと屈み顔を近づけて来るので、アルミンはギョッとして反射的に仰け反り、上ずった声で返事をするしかなかった。

「は、はい!先程、こちらに補給隊長がいらっしゃって、」
「なに?」

その言葉を紡ぎ終える前に、いつの間にか聞き耳を立てていたリヴァイ兵長が、パジャマ男を押しのけアルミンに詰め寄った。これには流石にジャンもコニーも驚きを隠せなかった。アルミンも目を白黒させて声にならない悲鳴をあげていた。ミカサはアルミンの生命の危機を感じている風な様子に眉を顰めるも、仮にも上官である彼にどう言ったらよいものかと推し量っていた。

「こら、リヴァイくん!この子怖がってるよ」

それに助け舟を出したのは、あのパジャマ男だった。ジャンは絶句した。あろうことか、右脇に抱えていたティッシュ箱の一つを手に、リヴァイ兵長の頭をポコンと叩いたのである。ジャンの脳内に、怒り心頭のリヴァイ兵長が瞬時に予測変換され、周囲が血の海になる、なんて最悪の状況を妄想してしまった。コニーも、アルミンも例外なく似たようなことを考えた。

「てめぇ、」

恐れていた最悪の事態。リヴァイ兵長の眉間には怒りの皺が一層深く刻まれる。ああ、もう逃げられない。そうジャンとコニーが覚悟を決める一方で、ミカサは落ち着きはらっていた。2人の脳内など知る由もないミカサだが、リヴァイ兵長の心の底からの憤怒は感じなかった。逆に、今から沈静化されるであろうということが感じ取れたのである。なぜなら、リヴァイ兵長の瞳に、一瞬だけ怒りとは違う感情が宿ったからである。それはどことなく、己の命をかけでも守りたい、たった一人の家族を見つめる自分に似ていたのだ。同族嫌悪とは上手く言ったもので、ミカサは鳥肌が立つのを禁じ得なかった。 しかしそんな事を知る由もないコニーとジャンは震え上がっていた。

「ごめんよ、リヴァイくんが驚かせて」

沢山のあらぬ勘違いや妄想の産物が訓練生の頭を過っているが、パジャマ男はエスパーの類でもなく、読心術が使えるわけでもないので、どう逆立ちしても分かるはずがなかった。いっそ知らぬが仏か。パジャマ男は本当に申し訳なさそうな声で、アルミンの二の腕をぽんぽん叩く。おそらく落ち着かせるための行為であったのだが、この時のアルミンには逆効果だった。

「ひ、い、いえ!だだ大丈夫、です!」

アルミンもアルミンで震えていた。しかしそれはコニーやジャンのものとは違っていた。もちろん、普段の3割増くらいで機嫌の悪そうなリヴァイ兵長が恐ろしいのもあるが、そんな牙剥き出しの獅子を叱れる男の方がよっぽどアルミンにとっては恐ろしく感じられた。人類最強を叱れるなど、このパジャマ男は一体どれだけ偉い人なのだろう、という畏れからくる震えだった。このパジャマ姿の男性が、兵士長クラス以上であることは間違いない。しかも人類最強と名高い彼を"くん"付けで呼ぶ人を、アルミンは少なくとも調査兵団の中に存在すると思わない。呼び捨てならば団長や分隊長で居ないこともないが、どう考えてもリヴァイ兵長が"くん"付けに文句をつけない訳がない。仮に調査兵団の人間でないとすれば、憲兵団か駐屯兵団か。そもそも兵士長とは一体どういう関係なのか。ちらりと横目でリヴァイ兵長を見るも、鋭い視線が自分に注がれていると瞬時に判断し、アルミンはこれ以上パジャマ男とリヴァイ兵長の関係を探ることをやめた。自分の命ほど可愛いものはない。

「ちょっと聞きたいんだけど…いいかな」
「は、はい!」
「君は、その、…が誰か知ってるの?」

アルミンは毛の穴という穴から汗が出ているのではないかと思う位には緊張がピークに達していた。ブラウンの柔らかい色の奥底にある、吸い込まれそうな黒がアルミンを捉えた。途端に頭が真っ白になってしまい、なんと答えて良いのか皆目見当もつかない。ただ、目の前の大男がそんなアルミンのただならぬ緊張の様子に気がついたのかそうでないのか、首を傾げながら顔を離してくれたのは救いだった。僅かに倒れそうになっていたアルミンの背を、そっと支えたのはミカサであった。ミカサが手のひらでぽんぽん、とアルミンの背中を軽く叩いた。触れていたのはほんの数秒のことではあるものの、アルミンは不思議と心が凪ぐのを感じていた。ミカサが、大丈夫と手のひらの温もり越しに伝えてくれたことに後押しされ、言葉を吐く。

「…はい。ガスマスクを着けている調査兵団のラッキーアイコンと、噂で聞いたことがあって、それで、その、知っています」
「そっかぁ…うーん、」

アルミンはこくりと頷く。すると、パジャマ男は困ったように首を傾げた。簡潔に答えたものの、いまいち伝わってない様に見える。アルミンは困った。言い換えた方が良いかもしれないと慌てたところに、リヴァイ兵長の射殺すような視線が畳みかかる。いよいよアルミンは気を失いたくなった。

「ここに来ていたと言ったな」
「は、はい…!」
「何分前だ」

何分前。そんなの考えてもいなかった。アルミンの頭はこのタイミングでキャパオーバーになった。頬を朱に染めて、はくはくと口を閉じては開いて、そして動かなくなる。立ったまま気絶しようとするアルミンに気がついたジャンは、あまりに不憫なアルミンに思わず助け舟を出してしまう。

「そのっ!補給班長なら5分ほど前に、ここにいました!」

お粗末な泥舟ではあったが、ジャンの勇気ある行動に乗じて、さりげなくミカサがアルミンを引っ張り何歩か後ずさった。その様子をコニーは偶然にも視界の隅で確認した。わざわざリヴァイ兵長から熱烈に送られるメンタル死亡光線を受けにいくジャンの行動は、コニーにとってはアホの極みだと思わずにはいられなかった。しかし、普段やりとりする貶し文句を、リヴァイ兵長の視界に入っている時に開けっぴろげに言えるほど、コニーはバカではなかった。同様にジャンも、一人で出られるほどの勇気があったわけではなかった。

「そうだよな、コニー!」
「へっ!?」

まさか白羽の矢が立つとは微塵にも考えなかったコニーは、素っ頓狂な声を上げてしまう。ギロリ、リヴァイ兵長の視線はジャンからコニーへと移る。その風穴でも空きそうな眼力にコニーの涙腺が限界を超えそうになった。とばっちり、なんて言葉はコニーの脳内から飛び出て、彼方へと飛んでいく。

「オイ、どうなんだ」
「あ、あのっ、そうです!あってます!」

多分、という言葉はすんでの所で飲み込んだ。いつも後先考えずに進んでしまう性格のコニーだが、この時ばかりは本能がそれを制した。こくこくと頷いてジャンに同意する。

「えっ!それはおかしいよ」

そして、パジャマ男がそれを一刀両断した。4人に謎の緊張が走る。ほう、とリヴァイ兵長がわざとらしく感嘆の声を漏らし、続きを話せとパジャマ男を見上げる。

「いや、だっておれはその、ぶえっくしょぉっ、へくしょあっ、」

会話の途中で器用にくしゃみをする男をジャンは初めて見た。どうリアクションをとっていいものか分からないだけでなく、肝心な部分が伝わらない。さらにはティッシュで鼻を噛み始めたために、男が言葉を続ける様子が見当たらなかった。

そして最悪なことに、リヴァイ兵長に大漁の唾液や鼻水がかかってしまったのは誰の目から見ても明らかであった。静まり返った一帯にパジャマ男のくしゃみはよく響く。リヴァイ兵長より30cm以上背の高いパジャマ男を見上げる体制のまま、固まるリヴァイ兵長。彼が動く瞬間が、最後の景色になるかもしれない。ミカサを除く3人は、いよいよ死を覚悟した。

「…」
「ずず、うええ…リヴァイくん、ごめ"ん"、うぇっくし、はぁ、ズビ、げほぉ」

恐ろしいことに、リヴァイ兵長の人を殺しそうな視線を受けておきながら、またパジャマ男はくしゃみを始めた。まるであの芋女のような、下手をしたら芋女よりも図太い神経を持っていたと後日ジャンは語るが、それはまた別の話である。 一方パジャマ男は、痰が絡んだような咳も混じり出して、ついにはティッシュに顔をうずめ、アルミンの足元にしゃがみこみ動かなくなる。脇に抱えていたカラフルなティッシュ箱が、バラバラと廊下に転がる。

「邪魔だ、どけ」
「べへぇっ」

それをリヴァイ兵長が足蹴りした。べちゃ、と石壁にうちつけられたパジャマ男は、地面に顔を突っ伏して動かない。リヴァイ兵長は神経質にハンカチを取り出し、髪の毛や顔、服を拭った。

「だ、大丈夫ですか…?」

一部始終が目の前で繰り広げられたことで、アルミンの顔は真っ青だ。壁際にひっくり返るパジャマ男に視線を向けながら、恐る恐るリヴァイ兵長に尋ねる。

「こいつは気にするな。それより、その""はどっちに行った?」

気にするなと言われて気にしない人はいないはだろう。そう内心でツッコミを入れたが、念入りに前髪を拭きながら眉間のシワを増やすリヴァイ兵長に対して、それを口にできるような猛者はいなかった。戸惑う3人を他所に、ミカサはいたって冷静な口調で、先程が向かった方向を指差した。

「補給班長ならば、あちらに、」
「わかった。…おい、行くぞ」

ミカサの指差した方向を向きながら、リヴァイ兵長は、持っていたちり紙で満杯になりつつあるゴミ箱の角で男をボカッと殴った。それなりに丈夫にできているはずのゴミ箱が凹んでいる。だが、相変わらず返事がない。死んでしまった。ジャンはそう思った。この世の不幸のオンパレードが、この男に降りかかっているとしか思えなかった。そんな通夜のような雰囲気を纏いだしたこの場から、早々に離れていくリヴァイ兵長に慌てて敬礼をする。

震えながら床に肢体をパジャマ男から伸ばされる手は、どこかホラーに似たものを感じさせられる。その手が壁につくと、突如男はがばりと起き上がった。彼から離れたが、それでも4人の中で一番近くにいたアルミンは、その勢いのよさとただならぬ気配に小さく悲鳴を上げ、反射的に一歩後ずさった。

4人の新兵に見守られながら、男は何事も無かった様に散らばったティッシュ箱を長い両腕で抱えるように拾い、ぐしゅぐしゅと鼻水をかみながら顔を拭いた。彼が顔を拭く前の顔が一瞬だけ視界に入ってしまったジャンは、このパジャマ男の顔が鼻水まみれのまま床に突っ伏したため、土埃がトッピングのようについていて、あまりの汚さに視線を逸らさずにはいられなかった。最初の優男の印象は消え去り、身体の大きな子供がいると錯覚することで、ジャンはこの場の状況を飲み込むことに成功した気分になっていた。

「ずずーっ、あ、うん。ゲホ、はぁ」

ジャンに失礼なことを思われているなど梅雨知らず、パジャマ男は人類最強に蹴られたとは思えない回復振りを見せた。呑気に鼻を噛んで、頷いて、咳き込んで、困ったように笑う。ぐしゃぐしゃになったちり紙が、彼のグローブみたいな手にパンパンに握られている。

「あ、リヴァイくーん!ちょっと待っててーっ」

そしてまるで片手間で召使でも呼ぶように、気さくなトーンで廊下のリヴァイ兵長に話しかける。つい先程足蹴にされ、ゴミ箱で殴られたことを綺麗さっぱり忘れているのだろうか、それぐらいには明るい声色で言うので、とてもだがダメージなど食らっているように見えなかった。ますますアルミンの脳内でこの男に対する評価が刻一刻と変化し、コニーは丈夫すぎるこの人に仲の良い大食らいの少女をぼんやりと重ね見て現実逃避した。

「…勝手にしろ」

リヴァイ兵長は律儀に立ち止まっており、十数メートル離れた場所から言葉少なに、それだけ言う。機から見ていると少しちぐはぐなやりとりだ。二人の間には会話が成立していない。そうジャンが思うのも無理はなかった。

「ありがと、リヴァイくん!」

ぱああ、と花が咲いたように笑うと、リヴァイ兵長は鼻を鳴らし、背を向け歩いて行った。それから、リヴァイ兵長を見送っていたアルミンの目の前に立つと、敬礼中の手を突如握りしめ握手したかと思うと、ぶんぶんと上下に振り、満面の笑みで早口にこう言うのだ。

「あの、きみ、アルミンくんだよね!突然聞いたのに、おれに快く教えてくれてありがとう!」
「え 、」
「君に出会えて本当によかったよ、命の恩人だ、本当にありがとう!」
「おい、!」
「い、今行く!…あの、このお礼はいつか必ずするから!じゃまたね!」

アルミンの返事を待たずに、と呼ばれたパジャマ男はリヴァイ兵長に呼ばれ、廊下の奥に全速力で走って行った。嵐のように現れた二人が廊下の角を曲がり、姿が見えなくなったことでようやく、一向は安堵の息を細く長く吐き出したのだった。

(あれ?って補給班長の名前じゃねぇの?)
(まさか!同じ名前ってだけじゃないか?マスクもしてなかったし)
(コニー、補給班長は、彼らより先に廊下を通った。…アルミン、大丈夫?)
(…あの人、どうして僕の名前知っていたんだろう)

2014/04/21 aioi