「ハンジ!ハンジ・ゾエ!」
人の名前を叫びながら、調査兵団の本拠地である建物の、広くも狭くもない廊下を怒り心頭でズンズン突き進む男がいた。鼻の頭を赤く染め、右手に複数のテイッシュ箱、左手に大きなゴミ箱を抱え、だらしないパジャマを着て、大股で歩く。荒々しい声に気がついた兵団員達は男を振り返り、その突進してきそうな形相に廊下の両脇に慌てて逸れた。そんな兵団員達を視界の端に納めつつも、男は振り返らず一心に前を見据えている。茶色い髪の毛を赤色のバンダナでオールバックにしており、その後れ毛をわさわさと揺らし突き進む様はまるで百獣の王のよう。鋭く前を捉えている血走った瞳は、獲物を見つけようと息巻くハンターのものと同じだった。周囲に避けた兵団員達よりも一回り、あるいはそれ以上に背が高く、体格の良いこのライオンみたいな男。
彼を、・という。
普段のは物静かで周囲を気遣える草食動物のような優しい人物と、普段を知る同僚は口々に語る。だが今のの様子にこれらの人相を当てはめるには、いささか無理があった。血気迫るその表情に、不幸かな偶然にも居合わせてしまった兵団員達は一様に彼の進む先から壁へと身を寄せて進行を妨害しないようにするしかない。ただの背の高い男が歩いているだけなのに、巨人が練り歩いているような恐怖を覚え、慄き固まることしかできなかった。そして、調査兵団では見慣れない顔立ち、パジャマなどというあり得ない服装の男が、どうしてハンジ分隊長を血眼になって探しているのかと、すれ違う全員が勘ぐるのは自然な流れだった。
「どうした、」
そんな中、この怒れる獅子に声をかける命知らずがいた。なおこの時、壁に身を寄せる兵団員の中には、エレン・イェーガーが居た。の巨人の行進にも劣らぬ快進の場に居合わせた不幸な兵団員の一人である。彼もまた調査兵団のラッキーアイコン、・の素顔を知らなかったために、エレンはこのパジャマ男とラッキーアイコンの人が同じ人物であると判別できなかった。故にエレンは、単に怒っている者に声をかける命知らずがいることに驚いて、我関せずと逸らしていた視線を向けてしまったのだ。そしてすぐに後悔した。
「リヴァイくん!」
廊下に仁王立ちする人類最強と畏れられる彼、リヴァイ兵長を視線に収めたパジャマ男…と呼ばれた彼は、あろうことがリヴァイ兵長を"くん"付けしたのである。
廊下に、声のない動揺と緊張感が突き抜ける。しかしその空気とはお構い無しに、は右に抱えたテイッシュ箱に左手を伸ばし、身を屈めて目元にティッシュを寄せた。は音もなく泣いていた。ボロボロ零れる雫は、紛れもない涙だ。充血する瞳を何度も瞬きさせ、搾り取るようにぎゅっと目をつむる。それでまた零れた涙を、両脇がゴミ箱とテイッシュで埋まっているにも関わらず、彼は乱暴に拭き取った。最初の廊下を猪突猛進で歩いていたのに、リヴァイ兵長の前に躍り出た途端ピタリと足を止め、メソメソと泣き出すものだから、兵団員はそのギャップについて行くことができない。
「落ち着け。何があった」
そうして泣き出したところまでの一部始終を、目の前に立っていながら、文句すら言わず、脚を蹴り上げず、拳を作ることもなく、リヴァイ兵長はを見上げていた。
「うう、あのね、ハンジがね、ずび、また盗んだんだ、」
はそう言うと小さく縮こまって、リヴァイ兵長と視線を合わせる。の屈み方は小さい子供にするものにしか見えず、身長をコンプレックスとしている節のあるリヴァイ兵長からしたら、その動作は蹴ってくださいと言っているようなもののはずだ。にもかかわらず、そのことに手足はおろか眉一つ動かさないリヴァイ兵長。平素とは違う恐ろしさがあった。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになり、お世辞にも綺麗とは言えない顔のパジャマ男と正面きって話をしているのに、潔癖性と有名な彼は何の反応も示さない。これはどの兵団員の目から見ても明らかな異常だった。
「何をだ」
「あれだよ…」
あれ、と便利な代名詞を、鼻声まじりに力無く言ったパジャマ男は俯き、テイッシュを引き抜いてまた鼻を噛んだ。先程までの勢いはなく、一体何を言っているのかわからない。こんなはっきりとしない言い回しでは、リヴァイ兵長の堪忍袋の緒が切れるのは時間の問題ではないか。壁と一体化したように縮こまるエレンは顔を青ざめさせる。
「ああ、あれか」
しかしリヴァイ兵長はさも当然のように、その言葉をさらりと受け流した。こくり、と頷いた。それと同時に脇に抱えたゴミ箱から、つい先程鼻をかんで潰れたテイッシュが一つ落ちた。
「あっ」
落ちたティッシュに気がついたは、慌てて拾おうと屈みこもうとする。一方でそれは、左脇に抱えるゴミ箱をさらに斜めにしてしまうことと同等だった。エレンは脳内で悲鳴をあげた。この鼻水がかまれた大量のティッシュが廊下にぶちまけられでもしたら、リヴァイ兵長がいよいよ般若の形相になるのではないか。
「いい、動くな」
屈もうとしたを静止し、流れるように落ちたティッシュを拾い上げたのは、あろうことかあのリヴァイ兵長だった。
「ありがと、リヴァイくん」
「礼はいい」
彼の左脇に抱えるゴミ箱に、つまんだティッシュを投げ入れるリヴァイ兵長。それにさも当然のように礼を言う。リヴァイ兵長に鼻をかんだティッシュを拾わせた。あの潔癖性で有名なリヴァイ兵長が、人の鼻水にまみれたティッシュを拾った。この世の摂理を無視したと言っても過言じゃない異常事態が発生している。エレンを始めとして、その場に居合わせた兵団員達の心が、かつてないほど合致した瞬間だった。このパジャマ男、いったい何者なのだ。
そんな微妙な空気が兵団員の間に流れているにも関わらず、二人は"あれ"について話出した。
「それより、あれの予備はないのか」
「ううん、あれは最後の一個なんだ。はぁ、ずず…ずびーっ…ふぅ、だから、出かけられなくて参っちゃってて」
「なら出かけなけりゃいいだろ」
「んん、そういうわけにはいかないんだ。今日はあれの新作を受け取りに、…ずずーっ、はぁ、行く約束してるから、ダメなんだよ」
背丈も体格も良いが、リヴァイ兵長に鼻をかみながらたどたどしく返事をする様子は、なぜか大きな子供が無くし物をしてしまったものに酷く似ている。目を赤く腫らし、鼻を啜る子供のような振る舞いに変な庇護欲にかられる。なぜかこのパジャマの男に耳と尻尾がついている幻覚さえ見えて、エレンはこの廊下から気配を薄くして逃げることは疎か、視線を逸らすタイミングさえもすっかり失ってしまっていた。
「俺が行く」
「それはもっとダメだ。あそこのご主人、受け渡しにとっても慎重で…おれが行かなくちゃ居留守されちゃう」
しょんぼりと落ち込む。あれを受け取りに行かないといけないが、あれがないと行けない。意味不明な会話なのに、二人は通じ合っている。親しい仲であることは察しなくても一目瞭然だが、その親しい相手がリヴァイ兵長とあれば、聞き耳を立てる兵団員の頭の中に色々な憶測が駆け巡るのだった。
「どうしよう、リヴァイくん。…ぶぇくしゅっ」
パジャマ男が何の前触れもなくくしゃみをした。鼻水ともヨダレともとれる液体が飛散した。エレンが、あっ、と感嘆を漏らす間もなかった。その水滴がリヴァイ兵長の目の前に迫る。スローモーション。
エレンはこの後を瞬時に想像し、思わず顔を覆った。骨を砕くような鈍い音が、周囲に響き渡る…エレン以外の兵団員も、誰もがそれを予測し、ある者は顔を逸らし、ある者は顔を歪ませ、またある者は視覚や聴覚を遮断し、ある者はこれを機にそっと廊下を後にした。
「ハンジが、あれを持ってるのは間違いないんだな?」
しかし数秒の間を置いて、リヴァイ兵長の落ち着いた声がした。骨が砕ける音も、人が床に倒れる音もしない。恐る恐るエレンが手のひらから顔を上げ、瞳をそろそろと開いた。そこには、想像を超える二人の姿があった。兵長がハンカチを広げ、のくしゃみで飛んだ水滴を丁寧に拭っていたのだ。しかもよく見れば、兵長には一滴もかかっておらず、何故かの顔にだけかかっている。
「んん"、ちょ、わぷっ」
「動くな。拭けないだろうが」
まるで大型犬にするように、男の顔をグリグリと撫で回し、ハンカチで優しく拭っているリヴァイ兵長がいる。いや、あれはリヴァイ兵長なのか。顔だけそっくりの別人ではないのか。エレンは混乱した。
「…夕飯はお前が作れ」
リヴァイ兵長は暫くしてピタリと手を止めると、優雅に、けれどテキパキとハンカチを畳み、ポケットにしまった。パジャマ男は真っ赤になった鼻以外は、しっかりと拭われて小綺麗になっている。ぽかんとリヴァイ兵長を見上げていた男は、言葉を理解した途端花が咲きそうなほどの満面の笑みを浮かべ、そして感動したのか潤んだ瞳を隠すことなく、縋るように兵長に手を伸ばした。
「リヴァイくん…!ありがとう!本当にありがとう!」
ゴミ箱を抱える左手で兵長と握手しながらも、感激に打ち震え鼻声で礼を言うの鼻からは、止めどなく鼻水と涙がながれている。潔癖性の兵長が顔面の穴から水を垂らした男を目の前に、しかも握手までされて蹴り上げないなんて、とてもではないがあり得ない。そんな一世一代の奇跡のような場面を目撃してしまったエレンは、いよいよ自分の命日が明日なのではないかと、あらぬ妄想に頭を切り替えずにはいられなかった。
「。このハンカチはお前にくれてやる。だからそのみっともない顔を拭け」
さらには、また新しいハンカチを取り出しての前に差し出す。さりげなくまた顔を拭い、ティッシュ箱を抱える右手に握らせた。
「あ、うん。ずびっ、…リヴァイくん、ごめんよ」
生地の良さそうな、きっちりとアイロンがけされているハンカチを、何のためらいもなく握りしめ、は力強く目元を拭う。そしてこっちが脱力してしまいそうなくらいのへにゃりととした笑みを零すのだった。
「へへ、リヴァイくん、ありがとう」
「ふん…いいから行くぞ」
心底安心したの様子に、満更でもない風に鼻を鳴らし、リヴァイ兵長はパジャマ男の左腕からゴミ箱を奪うと、ズカズカ階段のある方に進んでいった。その後ろを慌ててが追いかけて行って、止まっていた時間が動き出した。
エレンは、この一部始終を不覚にも見てしまったことに、酷い後悔の念を感じずにはいられなかった。
そして最後に、突き当たりの角を曲がる時にリヴァイ兵長から一瞥を送られ、言外に周囲に言い触らしたら殺すとでも言いたげな殺気までプレゼントされ。廊下に居合わせてしまった兵団員達はそのサプライズに耐性があるわけもなく、さらに新人のエレンは意識を飛ばし、その場にバタンとひっくり返って倒れるのだった。
(ん?リヴァイくん、いま何か落ちた物音がしたような…)
(気にするな。そのうち誰かが拾う)
(そう?…ずび、とにかくまずは、ハンジを、ずびび、はんじ、…)
(焦らなくていい。鼻をかんでから話せ)
(う、ん。 ずーっ、ずず…はぁ、ありがとう。そうだね、はやくハンジからあれを取り返さないと)
2014/04/21 aioi