俺の先輩はキチガイである。
「いや、だからヘムヘム、俺もうすぐ死ぬからそういうのはちょっと」
生物委員の元委員長、はもうずいぶん昔から変わった人だとは思っていた。先輩はとりわけ個性の強い最高学年の中でも、群を抜いて目立っている。しかしその目立ち方は、立花先輩のような品行方正、成績優秀とはまったく対の位置にあることはこの学園内にいれば知らないものはいないだろう。は"元"生物委員会委員長である。つまり端的にいえば、生物委員会の委員長をクビになったのである。決して、年相応忍び相応でない立ち振る舞いだとか、成績が目の検査だとかが問題になったのではない。委員会への貢献度合いがあまりにもお粗末で、というより委員会にまったくと言っていいほど出てこなかったために、顧問の木下先生のお怒りを買ったのである。そして彼のプライドの低さも相まって、彼はあっさりと委員長の座を後輩の竹谷に譲ったのだった。竹谷はそのこともあって、という先輩に対し少しの苦手意識を持っており、同時に、竹谷を指名したのはだという話を木下先生から直々に聞いたものだから、なぜ俺なのかと疑問を抱きつつもその意図がわからないでいた。たった1年しか違わないが、それでも先輩は先輩。昔はなにかしらの思惑があって俺を委員長代理に推薦したに違いないと、今思えば勘違いも甚だしい思い込みをしていたというわけである。だがしかし目の前でこうも奇怪なやり取りを繰り広げられると、やはり昔からの認識を改めざるを得ない。つまるところ、元生物委員会委員長 は、まごうことなき変人である。
「ヘム!ヘムヘムッ!」
「勘弁してくれよ。無理なもんは無理だ、っていうかもっと適したやつがいるだろ?生物委員とか」
「ヘムヘムゥ…ヘム、ヘムヘムヘムッ!ヘムゥ!」
「あっ、ちょ、なっ、なんでおまっ…やめて!それを言いふらすのだけはやめて!言うこと聞くから!」
「ヘムヘム!ヘームヘム!」
「……は?」
「ヘムヘームゥ?」
「ああああああくっそおおおおお乗せられたあああああ」
「ヘームヘムヘムヘムッ」
俺の目の前で、先輩とヘムヘムが行ったやり取りの一部始終がこれだ。先輩は突如として肩を落とし絶望の表情と顔色を見せるのに対し、ヘムヘムはしたり顔でその一挙一動を眺めている。俺の周りだけなんとも言えない雰囲気が漂う。何が何だかさっぱりで、一体何の話をしているんだと疑問しか出てこない。しかし憶測ではあるが、これは生物委員に関係するであろうことだけは分かった。委員長代理とはいえ、実質生物委員をまとめる立場に立っている。元ではあるが委員長の彼も無関係ではなかろう。そう判断して俺は、あんまり関わりたくなかったが、意を決して先輩に声をかける。
「先輩」
きっちりと切りそろえられた後ろ髪を揺らして、先輩は目の前のヘムヘムから視線をこちらに向けてくる。ヘムヘムが視界の隅で振り返るのが見える。先輩は驚きの表情をしたあとに、花が飛びそうなほどほんわかとした笑顔で返事をした。
「ああ、君はたしか蜂くんだね。短冊蜂蜜くん」
「いや、ぜんぜん違います。竹谷八左ヱ門です」
「あ、そうだっけ?まあいいじゃないか、細かいことは。しかし俺の名前をよく覚えていたね、蜂蜜くんは」
全然細かくないのに。先輩はまるで頓着しないそぶりで笑った。それに加えて、言ったそばから間違えるのはいかがなものか。この先輩はとにかく、名前を覚えない。たぶん覚える気がない。俺は脱力し、諦めに似た思いで先輩と対峙していた。
「ヘムヘムッ、ヘム!」
「あ?でっ!いってえ!」
「ヘム!」
「わ、わかったわかった。謝るよ。ごめんなさい」
そう考えていたら、ヘムヘムが先輩を殴った。あれよあれよと謝罪の言葉を俺に向け、土下座した。俺は息をのんだ。いや、先輩があっさり土下座したことにも驚いたが、そこではない。先輩の肩、やや背中よりに4匹、毒虫がひっついていたのだ。それも生物委員の中でさえも扱いに慎重にならなければ、下手をすれば死にいたる猛毒持ちの毒虫。本来なら生物委員の小屋にいるはずの彼らが、先輩の肩にくっついているなど誰が予測できただろう。まさか脱走?だとしたら他の虫も逃げ出してしまっているのでは…と俺は思考の渦に飲まれる。ヘムヘムはそんな俺のひきつった顔に気付いたのか、頭を下げ続ける先輩の後ろで口に人差し指(あれは指なのだろうか)をあてるしぐさをした。もしかしたらこの毒虫、ヘムヘムがくっつけたんじゃなかろうか。俺はそう考えると同時に、少し安堵の息を吐いた。生物委員会だから虫も飼育の対象とはなるが、この毒虫はヘムヘムの悪戯か、はたまた復讐のために使われている。いくらヘムヘムだからって、毒虫をわざわざ飼育小屋から放つなんてしない。つまりこの毒虫は、生物委員が飼育しているものではない。俺が捕獲する必要がなくなったということだ。
「腰痛くなってきた。足しびれてきた。もういい?」
「ヘムヘム!ヘームヘムヘムゥ」
「何だと…お許しが出るまで立つな、だと…」
「ヘム!」
「ぬぐ…お…、た…頼む…この通りだ…許せ…」
そして先輩は、ヘムヘムが背中に乗ってきたことでさらに苦しんでいるようだった。ぷるぷる震えている。こんな人が1学年上の先輩かと思うと気が抜けて、しかも毒虫が肩に乗っていて、ある意味では絶体絶命なのに必死になって俺の許しを乞うているその図は異常だった。そもそも俺は怒っているわけではなかったから(ただあきれていた)逆にこの変な状況を目の当たりにして笑いがこみあげてきた。ヘムヘムも笑いだす。
「え、なにこれどういうこと。うぐっ、ヘムヘム…揺らさないでくれ!足が…足が…!」
先輩は面を挙げていないからなにがなんだかわからない、といった様子だった。ヘムヘムが体をゆさって笑う振動がしびれた足に伝わってこそばゆいことに苦痛を訴えている。ヘムヘムはひとしきりわらって満足したのか先輩の背中からひらりと退いた。そして少し離れた位置に横たわっていた竹ぼうきを拾い上げて、こちらをくるりと振り返ると、笑顔で手を振ってそこから足早に去って行った。掃除の途中だったのだろうか。俺も手を振って見送る。
一方で先輩は石化したように動かない。たぶん、動けないのだろう。本当にこの人は先輩かと疑わしくなる瞬間が多すぎる。土下座したままの人間を放置するのもあれなので、俺は怒っていないから大丈夫だと言えば先輩は顔だけあげてへにゃりと笑った。気の抜けてゆるみきった表情だった。
「いやー、参った参った。悪かったね。俺は名前を覚えるのが苦手なんだよ。許してくれてありがとう、蜂蜜蝋燭くん」
先輩は清々しい笑顔でまた、俺の名前を大幅に間違えた。まるで先程のヘムヘムとのやり取りを覚えてないようだった。もう否定する気も起きない。やはりこの先輩は頭が狂っている。
一体先輩という存在がなんであったのかを改めて考えなければならないほど、この先輩には問題があるとしか思えない。しかし、ある意味この個性の強すぎる部分は俺の知る1つ年上の先輩達の前では霞むか、あるいは同等か、と考えていいのだろう。俺は絶対こんなふうにはなりたくない、いっそならないと改めて決意する。そんな風に半分意識を飛ばしていたら、先輩が俺に見えるようなわざとらしいため息をついて肩を落とした。そしてその肩には、相変わらず色鮮やかに存在を主張する毒虫達。先輩の口が重々しく開く。
「俺…今すごくやばいよね」
「そうですね、俺から見てもやばいと思います。それもかなり」
そんなわかりきったこと、言うまでもない。
先輩はヘムヘムによって罠にはめられている。ヘムヘムは言うなと暗に伝えてきたが、だからといってそれは俺の良心が邪魔をするというか、なんというか先輩が不憫で仕方なかった。まぁそれはともかく、学園の中で、しかも目の前で毒虫殺人事件が勃発するなど縁起でもない。先輩に罰(こんな生命の危機を感じること俺は御免だが)をくわせようとしたヘムヘムには申し訳ないが、先輩への助言ぐらいは俺の夢見を悪くしないためにしていいだろう。そう思って俺は口を開きかけたが、先輩の言葉によってあいた口をさらに開くはめになる。
「まさか虫を預かってくれなんてヘムヘムが言うなんて。先の短い青年になんて不吉なことを頼むんだ、あの忍犬は」
「……………は?」
「まー普通そうなるよなぁ…お前達、それでいいのかい?…わかった、わかった。ったく、今日は散々だ」
俺はたっぷり間を置いて先輩の一言一句を噛み締めたのち、間抜けな返答しかできるわけがなかった。先輩はあっけからんといった様子で、事も無げに毒虫を撫でる。それも素手で。俺は思わずぞっとしてしまった。
先輩が何をしているのか、何を言っているのか。俺は頭がいいと自負するほどではないが、人並みに頭は回ると思っているし、常識もある程度わきまえているつもりでいる。しかしその俺からしても、先輩の言動がすべて奇妙なものに見えてしかたない。
第一、先の短いなんていういかにも自分の死に目が近いような言葉、そうやすやすと口にできるものか。仮にも、元がつくとはいえ先輩は生物委員だったのだ。生き物の生死を、その無情さを知らないわけがない。それを知っていながら言葉にすることに、一体どんな意味合いがあるというのか?しかもあの毒虫の毒を知らないはずがあるまい。腹に毒を蓄え、背中の穴から毒を出す。皮膚に付着するだけでも問題があるというのに、それでいて素手でどうして触ることができるだろうか。まさか先輩はこの虫が毒虫であることを知らないのではないか、そんな疑問が俺の頭によぎった。この先輩ならあり得ないことではない。
「あの、先輩」
「ん?どうしたの蜂蜜くん」
「あ…えっと、」
先輩は毒虫を見つめていた時のままの表情と、酷く嬉しそうな声色でこちらに顔をむけてくる。それがあんまりにも幸せそうだったから、俺はなんと切り出せばよいのか言葉に詰まってしまった。 すると先輩は一瞬俺の方を見てキョトンと目を瞬かせたかと思うと、肩にいる虫を見て合点がいったように手をぽんと叩いた。
「ああ、こいつらの名前な。左にいるのがミチコとヤヨイ。そんで右肩がアスカ、カエデだ。全部メスでな、今ちょうど産卵期だよ。まぁ見た限りだとあと2日ぐらいで産むってところだろう」
そして俺の期待したものとは大きくずれた言葉が先輩の口から放たれる。内容を理解して驚きをあらわにする間もなく、何も言えない(正確にはあいた口がふさがらない)俺を見て先輩は微笑んで、訳知り顔で饒舌に続ける。
「いやなに、簡単なことだ。メスは子供に毒を蓄える術をつける為に、生まれる前からほんの僅かずつではあるが体液に毒を流し込むんだよ。だから腹に抱えた毒は背中ではなく、足の付け根にいる稚児に注がれていてね。だから彼女らは今、触ってもなんの問題もない。むしろ毒が出るとまずいからと、木の棒なんかで捕獲しようとすれば毒に覆われた稚児が潰れて逆にそちらの方が危険なこともある」
「…!」
俺は驚いて、あっけに取られてしまう。彼は気がついていた。俺が彼の行動に疑念を抱いたことにも、先程俺が先輩に伝えようとしたことも。彼は遠回しに俺に伝えて来たのだ。しかも、俺はこの毒虫が妊娠しているなんてまったく気がつけなかった。そもそもこの毒虫がそのようにして卵を生むこと、今毒がないことをまったく知らないでいた。やはりこの人は先輩なのだ。どんなに気違いと称されていても、私達よりも経験と知識の量が違うのだと思い知らされる。
俺が固まっているのをどう捉えたのか、先輩はふんわりとした笑みを一瞬引っ込めて、宙を眺めたかと思うと、突如ニヤリと口角をあげて俺の肩を叩いた。
「いい事を思いついたぞ、生物委員長代理!」
突如大声で、しかも目の前で出されるもんだから耳鳴りがした。あまりの展開に俺は言葉に詰まらざるを得ない。 それをいいことに、先輩はこう仰ったのだ。
「お前がこいつらの出産事情も分からないのでは生物委員長代理として先が思いやられるな。というわけで竹谷八左ヱ門、お前は俺に付いて、こいつらの出産から子育ての手筈までしっかり学べ。この毒虫を扱えればプロも近いぞ。お前は新しい知識を学べて、俺は後輩に正しい知識を継承できて、一石二鳥だしな。よし!お前も今日からこいつらの世話係だ!」
その時の先輩の凶悪な笑みを、俺は一生忘れない。そして、それ以降毒虫の実質的な世話をしたのは先輩ではないのは言うまでもない。先輩は気違いだが、それ以上にものぐさであった。酷い時は自分の飯さえも気にかけないのである。俺はほんの少し、先輩がなぜ生物委員長でないかの理由を垣間見ることになるが、それはまた別のお話である。