三反田数馬の場合


僕の従兄はキチガイである。

「俺の死因は出血多量ってことにしておいてくれ、数馬。後は頼む」

在りし日の早朝。保健室の十寸手前の廊下の曲がり角にて、潔い笑顔のまま手から顔からドクドクと鮮血を流してうつ伏せに倒れている"いとこ"のに、僕は卒倒しそうになった。

「な…な…なんでこんな血だらけなんですか!!?っていうかなんでまったく止血してないんですか!!」
「いや…川の向こうのじいちゃんが、男は我慢だそれぐらい耐えて川を渡ってこそ男の中の男だって言ってるし…」
「えっ、ちょっとさん!ダメですその川絶対渡っちゃダメですってば!」
「はは…この川の流れ案外きついんだな…全然前に進まねえ…なんか息も苦しくなって…」
「違いますって!廊下で血だらけで匍匐前進しないでくださいっ、ちゃんと処置しますから戻ってきてください!!」

僕、三反田数馬は不運委員と名高い保健委員の1人。だが、それ以上に不運を抱えているのではないかと思われるほど従兄のさんはついていない。例えば、屋根瓦を修理している家の近くを通るだけで彼の頭に瓦が降ってきたり。例えば、迷子の子供や行き倒れの老人を助ければ、実は盗人やら忍者だとかで結果騙されたり。例えば、手裏剣の練習をしている生徒達の近くを歩くと、突如逸れた手裏剣に髪の毛やら額やらをざっくりやられたり。このように例を挙げればキリが無い数々の不運っぷりでいつ死んでもおかしくないかのようだが、彼は不運と呼ばれない。それは、ただ彼が保険委員に所属していないからではない。どんなに不運に見えても、彼は彼自身が不運なのではなく、そういう事故に"意図的に遭遇"しているのだ。もし僕が忍術学園に入学していなかったら、従兄は不運なのだと信じ切っていただろう。それはともかく、彼が不運でない理由は、怪我の理由をしっかり話してもらうとわかる。曰く、彼と一緒にいた後輩の頭を瓦から守りたかったとか。曰く、自分より後に出発した先輩が密書を持っていたので、少しでも危険を取り除きたかったから。曰く、逸れた手裏剣が廊下を歩いていた友人に当たりそうだったから。僕も、彼の言い訳に賛同する節はある。それが本音なら彼の美点になるのかもしれない。しかし生憎、その言い訳は本音ではないのだ。彼は自分で傷や怪我の手当を施さず、最悪の場合放置して重症化させる。第一前提として彼は気が狂っている。不運ではなく、気違い。そのことは忍術学園の中で知らないものはいないだろう。だが、昔から治っていない彼の気違いじみた言動の根源を知っているのは、僕と一部の先輩方だけのようなものだ。

「というかですね!またこんなに怪我をつくって、本当に何度言ったらわかるんですか、さん!死にたがるのもいい加減にしてくださいよ!」

彼は死にたがりだ。しかも自害できない死にたがり。誰かに殺されるのを、ただひたすら待っている臆病者だ。僕は自分自身あまり声を荒げる人なりではないと自負しているが、それでも従兄弟の愚行を咎めずにはいられなかった。引きずるようにして押しこんだ保健室の引き戸を後ろ手で閉め、視線をまっすぐに彼に向けて眉を釣り上げる。そんな僕の様子を見た彼は、母親に怒られた童のようにどこか所在無げに瞳を揺らした。

「いや、わざとじゃないんだよ?決してわざとじゃないんだ」
「ええ、知ってます。故意にやってるんでしょう」

僕が 断定するように彼を追い詰めれば、彼は声を失ったように息をつまらせて、それから困ったとでも言いたげに眉を下げ笑うのだ。その顔をすれば許されるとでも思っているのだろうか。彼が死ぬことで、いったいどれだけの影響がでるのか知っているのだろうか。僕が入学したての頃なんかは、保険委員の先輩が耳にタコができるくらい繰り返していた彼のことを、僕は今でも覚えている。猫なんてもんは、ふらっといなくなってそのまま帰ってこないからこっちが参っちゃうんだよなぁ、と。昔の僕はなにも知らなかったけど、今だからわかる。この言葉は彼の、僕の従兄の揶揄だったのだ。彼はすごくおしゃべりだが、本心はしゃべらない。滅多に弱音を見せなくて、矜恃が底辺にあるように見えて変に自信家の節がある。そのくせして、ある日突然たまった膿を吐き出すように大泣きし、かと思えば授業を2週間無断欠席して(その時は皆もう彼が帰って来ないものだと思っていた)合戦場で一儲けしてくる。ころころと変わる彼の言動は猫みたいだが、生憎彼は猫では無いので決して可愛いと揶揄されることはない。むしろその逆だ。憎たらしい。でも、憎さ余って可愛さ100倍とはよく言ったもので、なんだかんだいって心配してしまう。なのに知ってか知らずか(僕の予想だとおそらく前者だ)その心配などお構いなしに、この先輩は唯我独尊を地で行くのである。そして、毎回行方を晦ましてはぼろぼろになって、本当に衰弱しきってから発見されるのだ。 その度に僕は気が気でなくなって、酷い時は食事さえ喉を通らない。だから彼に一つ二つ、それ以上の文句があるけれど、普段から努めて言わないようにしている。

「今更貴方の言い訳がまかり通るとお思いでしたら、大違いです!さんは前科がおありですからね!子供だって犬猫だって、その程度の分別はもっているんですよ?もう少し最高学年として体裁を保つべきです。今後また同じようなことがあったら許しませんからね!」

けれど、保険委員としての矜恃が芽生えつつある三反田は、現保険委員長も真っ青になるような辛辣な言葉をぶつぶつと彼にぶつける。そして言葉と裏腹に、甲斐甲斐しく彼に手当てを施すのである。僕は知っているのだ。彼がこんなにもボロボロになって帰ってくる理由を、彼の死にたがる理由を。でも、それを咎めるだけの力が僕にないことは痛いほどわかっているから、何も知らない後輩として振舞うのだ。

「はい、はい。肝に銘じておきます」

彼は困ったように眉を下げへにゃりと笑う。そういう時この従兄は困っているのだが、僕は知らんぷりする。まだ何か言いたそうにそわそわしていたが、ややあって彼は黙った。僕も黙って処置をする。僕はまた新しい包帯を赤く染まった手で取り上げ、右腕の付け根をぐいと縛り、止血した。もはや上着と呼ぶにふさわしくない、しっとりと濡れそぼって裂けた服を脱がす。傷は大小あるけど、特に刻まれたような背中の怪我が目に付いた。手早く処置を施す間、彼は一言も言葉を発しなかった。あらかた終わったところで、新しい上着を彼に渡す。彼は礼を言ってから布を広げた。僕は桶に用意してあった水を別の桶に移し、処置で血塗れになった道具をその中にいれて、自分の手も洗う。僕に背を向けて着替えている彼にふと視線をやれば、古傷の混じる横腹がちらりと目に入る。彼が袖を通したことで隠れたそれらの怪我は、傍目でもとんでもなく数が多い。ふと、彼にとってその傷はどんなものなのかと思いを沈ませて、僕の手は止まる。
そして同時に、閉めたはずの襖がガタリと音を立てた。僕は驚いて振り返った。空いた隙間から顔を覗かせたのは、従兄を発見する半刻前、雑用があるから先に保健室を預かってくれと言って部屋を出ていった保険委員長だった。

「善法寺先輩!」
「数馬、遅くなってごめんね」

ほんの少し土が髪の毛に付着していることで、彼の身に何があったのか僕は一瞬で理解をした。この様子だとおそらく、綾部喜八郎先輩の蛸壺もとい落とし穴に落ちたのだろう。でも不運中の幸いか、手には薬草が抱えられていて、潰れた跡がない。なにより、先輩にかすり傷ひとつないのが、なぜか珍しく思えた。
そして同時に、最悪のタイミングで彼がきてしまったものだと僕は頭を抱えたい衝動におそわれる。 こんなタイミングで来てしまったら、彼に、

「って、!帰ってきたのか!」

ああ、気づいてしまった。善法寺先輩は優しいから、彼に声をかけてしまうのだ。呼ばれた従兄は顔をあげて、先輩のほうを見る。善法寺先輩の瞳が見ているのは怪我を負った人ただそれだけである。 処置しなければ、その一心で先輩は従兄に近づいて行くのだ。そこにはただ怪我人を処置しようとする医者が居た。先輩は気づかない。目の前の怪我人が、忍術学園で5年間苦楽を共にした親友が、愛しい人を亡き者とした人であると、知らない。
そして、従兄も知らない。任務の為に初めて殺した人物が、親友の許婚だったなど、微塵も知らない。
知っているのは、この場に僕しか居ない。

「…伊作、また綾部の穴に落ちたね」
「うん。でも薬草は落とさなかったし、擦り傷ひとつないんだから!今日はついてるよ」
「それ、落ちた人の台詞じゃないと思うんだけど」
「いつもなら薬草ダメにしちゃうんだよ?でも今日は煎じて薬にできるくらい状態がいいんだ」
「なんだ?不幸中の幸いってか」
「そう。でも、今は手当が先だね。、足の処置が終わってないみたいだから」
「げっ」
「僕に隠し事ができると思ったら大間違いだからね。ほら、早く足首を見せて」
「はぁ、ばれたか、」
「当然。どうせ放置する気だったんでしょ」
「…いや、これくらい自分で処置する」
「応急処置の単位3年連続落第点とって再追試受けてる君に言われても信憑性がないよ」
「ぐっ…なにも今言うことないだろ、」
「今言わなくていつ言うの。君のそのクセが治ったら考えるけど」
「無理だな」
「即答?!」
「だって治す気ないし?」
「あのねぇ、」
「それにこうして応急手当で学年トップの伊作が治してくれるからいいじゃん」
「…調子いいんだから…」
「照れてる?照れてる?あらやだかーわいいー」
「そっか…ところで、今度新作の毒の効用を試そうと思ってるんだけど「ごめんなさい!だからやめて俺をそんな目で見るのやめて!」
「冗談。ほら、足出して」
「…おう」

目の前でテンポよく行われるやり取りは、傍目には気心を許しあった2人組なのにその存在が酷く遠く感じる。僕は心の臓を潰されたような気分でいた。僕は知ってしまっているのだ。善法寺先輩が狂ったようにただ涙を零しながら、亡き人を想って終日薬を煎じていたこと。この世の終わりを見たように、高熱に魘されていたことを。だからこそ怖いのだ。従兄が死にたがる理由の根元がすり替わってしまうのが、怖い。もし、"許婚の二人を引き裂いてしまった"という負の感情、いっそ夫となるはずだった人に殺されたら許されるのかもしれないという、罪の意識にさいなまれてしまったら。もし、こんな事実を善法寺先輩が、従兄が知ってしまったら。彼らがどんな行動をとるのか、僕にはまったく想像がつかなかった。その事実が恐ろしくて、僕はそっと二人から離れようとする。2人が嫌いなわけじゃない。むしろ2人とも尊敬している先輩であることにかわりない。ただ僕は、これ以上この二人のやりとりをただ黙って見ていられないのだ。

「うん、これで良し。あとは数馬にやってもらったみたいだから、大丈夫そうだね」
「…ああ。…そうだ、数馬、」

でも立ち上がったところで、彼に名前を呼ばれてしまう。そこで僕の心の臓は冷や水を浴びせられたようにぐっと縮んで、身体を硬直させてしまう。口さえも動かない。恐る恐る視線を向ければ、怪訝な表情でこちらを伺う善法寺先輩の心配そうな瞳と、まるで獲物を見つけた時のような従兄のギラギラとした瞳の両方とかち合って、僕は卒倒しそうになる。まさか、僕の心の中が二人に聞こえてしまったのかと、パニックになる程度には僕の判断能力は鈍ってしまっていて、何ですかと一言返すことさえできなかった。 従兄のその瞳は数秒だったのかもしれないし、一瞬だったのかもしれない。彼はその瞳を瞬きして消し去って、それからゆったりとした動作で立ち上がり、僕の方に手を伸ばす。僕はほとんど無意識に、びくりと身体を震わせて目をギュッと閉じていた。そしてわずかな間の後、僕ははっとして目をあけた。彼は伸ばした手をぴたりと止めて、手持ち無沙汰になったその、僕より一回り大きな手をゆるゆると引っ込めていった。

「処置ありがとな。ごめん、もう大丈夫だから、心配すんな」

僕はまたどきりと心臓が弾むのを感じた。従兄は、もしかして本当に僕の思っていた事がわかってしまったのか?だってそうでなきゃ、矜恃の高い彼がこんなふうに謝るわけがない。どうして、どうして?そんな僕のおかしい様子に気がついたのだろう、伊作先輩の訝しげな視線が従兄と僕に向けられる。従兄は悲しげに笑っていた。今までに見た事のない人がそこにいるようで、僕は鳥肌が止まらなかった。

「じゃあな伊作、数馬」

従兄は僕と先輩の返事を待たずに、外へ出て行ってしまった。僕はその場に崩れ落ちた。善法寺伊作保険委員長がなにごとかを言っている。僕を心配してくれている。でも、震えが止まらない。目頭が熱くて、堪えるので精一杯だった。今、僕は言葉を出してはいけない。今僕が感じていることが堰を切ったようにあふれてしまったら、僕は、むしろ2人はどうなってしまうのだろうか。従兄のみたことのない表情から溢れていた感情の波に当てられたからなのかもしれない。あの刺さるような視線に心を刺激されて吐き出せてしまえたら、僕はどんなに楽になれるのかを考えた。そんな下衆な考えを一瞬だとしても持ってしまったことが恥ずかしかった。そして目の前で僕の頭を優しくなで続けてくれる先輩の手のひらの優しさに逃げる自分を、いっそ殺してくれたらと思った。