私の愛する人はキチガイである。
「別れよう、利吉さん」
蚊の鳴くような声でそう言うのは、忍術学園6年は組の。私と恋仲にある少年は、学園の裏手にある裏々々々山にある渓谷の麓で、いまにも息絶えそうな顔色でへにゃりと笑った。私は物言わぬ人形のように、その傍らで硬直することしかできなかった。彼の発言の意図さえ汲めずにいた。こんな今にも死にそうな恋人を目の前にして、涙ひとつ零れないのも可笑しな話だ。彼に触れることはおろか、声さえも出ない。私は、多分この現状を現実として受け入れられないのだ。
彼は学園の中でも優秀な忍者の卵である。いや、もはやそれは名目の上であって、一緒に任務をしたことのある私からしたら、彼は既に一人前の忍者だった。私と彼は2年前、ひょんなことで出会った。学園の生徒が実際の任務を見学するという名目のもと、学園長の思い付きでフリーの忍者達の任務を尾行することとなる。その時私を尾行していたのが、彼だった。
当時私はまだ若かったから、無茶と無謀の分別さえなかった。そして城仕えでない私はフリーの忍者であることに妙な負い目を感じていた。前回の任務がうまくいかなかったというタイミングも相まって、当時普段より難易度の高い任務を引き受けたのである。内容はとある城主の暗殺。その城主は忍者マニアとかで、クナイ手裏剣撒き菱焙烙火矢などの物品を集めては部下を的にして遊んでいるのだという。私は素人の忍者ごっこだと、たかをくくっていた。それがいけなかった。城主は現役を退いたとはいえ本物の忍者だったのだ。危機は脱したものの、城から抜け出せず死にそうになった私を救ったのは、背の少し高い城仕えの女中だった。女中は驚いた顔をしていたから、叫ばれたら叶わないと最後の苦無で必死に殺そうとした。しかし女中は手慣れた手つきで私の手から苦無をひらりと奪い取ると、私を逃がすために城のカラクリ抜け道を案内すると言った。私はプライドが高かったから一度は拒絶した。そうでなくとも、敵方の女中について行くような神経は持ち合わせていなかった。しかし彼女の一言で、考えを改めることになる。
『名乗ってもいないのに信用しろというのも可笑しな話だったわね。私は山田伝子。訳あってこのお城に仕えていたけど、今日でお役御免なの』
その時の私の顔はどんなだったか、おそらく間抜けな顔をしていたに違いない。山田伝子の名前は、聞き間違えるはずがない。同姓同名がいるとも考えにくい。そうだとすると、この女中は私の父を知っている、それも女装時の名前を出してくるということは、学園の関係者である可能性もあった。
しかしどこからどう見ても、目の前の女中が忍たま、自分と変わらない歳の少年であるとは思えなかった。声も高く、背も成人した女性の高さ、喉仏もなくて、胸や肩の丸み、指の細さ、あかぎれの痕、全て違和感がない。そんな私の不躾な視線に気がついた女中は、くすりと笑って右手に持ったままだった苦無を懐に慣れた手つきで仕舞う。着物の衿を、返した手でぐっと引っ張った。ばさりと布の広がる音と、その終息によって、ようやく私は女中が変幻の術を解いたことに気がついた。そこには見覚えのある紫色の忍び装束を纏った一人の少年がいた。
『お初にお目にかかります。私は4年は組のです。課題でプロ忍者の尾行をするように言われていました』
少年は美しい所作で手短な挨拶を済ませた。声は様変わりして歳にしてはやや低めの少年のものになり、さらに先ほどまで見えなかった小さな喉仏が上下するのが視界にはいる。
『しかし、私が言われた課題は尾行だけです。恩師の息子さんの危機を救うな、とは言われていません。…さ、感づかれる前に行きましょう。山田利吉さん』
そう早口に言って彼は私の手を引いた。からり、軽い壁板が回転する音がして、視界が闇に包まれる。明るいところから暗いところに突然入ると、何も見えなくなってしまう。視界以外の五感が敏感になる。そして自分の後ろ側から、歩く音が響いて聞こえてくるのがあった。いくつか声がして、その全てが私を探す者たちの声だった。私は心の臓が早鐘のごとく鳴るのを聞きながら、握る少年の手におびただしい肉刺とささくれがあるのを感じていた。それはまごうと無き、忍者の手だった。
『出口はあちらです。この抜け道はもう誰も使っていないから大丈夫。…目が慣れてから、行きましょう』
そして私はその手に、その声に、あの時ひどく安堵したものだった。それからだ、私が彼を追いかけるようになったのは。私は父がいるからとあまり寄り付かなかった忍術学園に足繁く通うことになる。いま思えばあの時から私は彼に思いを寄せていたのかもしれないが、そこに疑いの余地はなく、純粋に彼を追う私がいた。そして彼と私が恋仲となるのに、そう時間はかからなかった。彼と私は打ち解けるのが一等早かった。まるで前世で同じ時を過ごしたのではないかと錯覚するほど、彼の隣は居心地がいいのだった。
彼はなにより忍術に長けていた。当時すでにプロの忍びだった私よりも、判断力、決断力、身体能力、そして行動力。その全てにおいて彼は遥かに私の上をいっていた。でも彼は忍術学園では自堕落な生徒として知られていた。初めこそ私は驚いた。まだ私とそこまで年の離れていない彼には、初めて会った時の印象が強くこびりついていたから、こんな自堕落な生活をしていたなど予想だにできなかった。でも今ならわかる。彼は擬態しているのだ。彼は忍たまを演じている。しかも最も手が抜かれやすい衣食住がある学園内において、級友の全てを、学園内のほぼ全員を騙していたのだった。敵を欺くには味方からとはよく言ったもので、彼はまさにその言葉を体現したそのもののように思えた。私は感動のあまり、鳥肌が止まらなかったのを覚えている。だから彼は学園の生徒達にその本性を悟らせていない。そして本当の、完璧なまでに忍者である彼の一面を知っているという優越感がたまらなく好きだった。尊敬の対象として、そしてそれ以上に彼に惹かれたのは、間違いなく私だ。
「やだな利吉さん、聞こえなかった?別れようって言ったんだ。なにか返事をちょうだいよ」
少しつり目に見えるけど、よくみると長い睫毛が影を落としていて、そのお陰で本当はもっとたれ目だ。これは、私だけが知っている。その目の尻をきゆっと下げて笑う、愛しい彼の身体はもう動かない。渓谷の岩が逸れてできた細い水流には、彼の血の一部が流れ込んで小さな水たまりを作っている。そして傍の石には彼の血が付着しているが、乾燥して黒くなってきていた。彼がこの状態になってからもう、随分と時間が経っていた。私にはわかってしまった。これが今、死にゆく人の最期だと。完璧であった彼の最期だと。そして私はぼんやりと、ああ、彼も人間だったのだとこの時初めて認識し、ほぼ同時に疑問がこみ上げるのを感じていた。彼は、私を惚れさせたその人は、いなかったのか?そんなはずはない。これも、彼の得意な演技なんだろうか。私はかぶりをふった。彼と初めて会った時以来、彼に対してすることのなかった拒絶と否定の意思表示だった。
「嫌だ…そんなこと、私は許さない」
私はそう言った後に、怒りに似ているがどこか違う気持ちが浮かび上がるのを他人事のように感じていた。決して悲しいわけではない。かといって楽しいわけでもない。彼が一つ瞬きをするたびに本当に眠りについてしまいそうで、怖かった。傍目から見ても、これまでの経験からしても、彼が死ぬことに間違いないというのに。感覚が麻痺しているのかもしれない。彼は一瞬きょとりとして、私の目を覗き込んでから、微笑んだ。
「聞き分け悪いなぁ…はぁ、わかってるでしょう、利吉さん、…げほっ…別れる、べきなんだ、私たちは」
ぜいぜいと息する彼は、見ていて痛ましい。なのに何故だろう、私は彼に近寄ることができない。彼は完璧だから、私をからかうことなど容易いだろう。でも彼が私にそうしたとして、一体彼になんの得があるのか。別れるための口実にしては、いささか手際が悪い。本当に別れたいと思っていたのだとしたら、こんな遠回しなことをするはずがない。本当に、彼の死に目に会ったのは偶然か?
「これだから会いたくなかったんだよ、利吉さんには…私が死ぬところなんて、見るべきじゃなかった。死んだ後だったらよかったのに」
私は一瞬言葉を詰まらせた。彼が何と言ったのか理解に苦しんだ。死ぬ?彼が、完璧である彼が、死ぬなどと。でも私にほんの僅か残っていたらしい冷静な理性は、医者も逃げ出すであろう出血量と彼の肌の色、呼吸する音、血の臭い、そよ風で靡く髪、その全てを拾い上げ情報化し、この目の前の光景を事実として死を鮮烈に教えてくれるのだった。認めざるを得なかった。これ以上彼を動かす方が、かえって死期をいたづらに早めるだけだと、分かりきっていた。
「馬鹿者、私がそれを許すと思っているのか」
ぐるぐると回る後ろ向きな思考回路の渦の中で、私は震えた声で彼にそう言うので精一杯だった。そして言い終わった後に、一体私は何と言ったのかを思い返して、何と言うことを彼に言ったのかと顔を青ざめさせる。普段の私なら絶対にしない愚行を、こんな彼の目の前でさらすことになるなんて。ああ、彼は現にこちらを見てくすくすと楽しそうに笑っているではないか。その表情は、彼が子供を相手にする時のそれとよく似ていた。そしてひとしきり笑った後、彼は心なしか弾んだ声色で私に言った。
「いいや、許さない。絶対に許さないよ、利吉さんは。だからいいんじゃないか。私をずっと、許さないでいれば、私は、一生あなたの心の中で息をすることができるだろう?」
だから俺を一生許してくれるなと、彼はそれが当然であるかのように告げて微笑んだ。私は絶望した。この現状をどうしようもできないことに、酷い落胆を覚えた。だって彼はまだ私のことを十分知らない。私だって、まだまだ彼のことを十分知らない。このまま、彼は私の願いを聞き届けないまま往ってしまうというのか。人の事をいえる立場ではないが、私は彼を許すなんてできない。そんな私を知っておいて、彼は図ったように私にそう告げたのだ。私が彼を切り捨てられないのと同じように。
「お前は…本当に…人の気持ちを考えていないよ…」
熱いものが目頭にこみ上げるけれど、それをぐっとこらえて、いつものように笑った。今は、少しでも彼に涙を見せたくなかった。できるなら、彼には私の笑顔を最後にみていてほしかった。ほんの少し残った私のエゴだ。多分彼はもっと感情に揺れた私を思い描いていたのだとしたら、それを覆してやりたかった。悔しいのだ。最後の最後まで、彼に恩を返せたか考えるたび、何も返せないことをまざまざと見せつけてくる彼が、少し憎いし、それでいて誇らしい。そして彼に遅れを取る自分に、腹を立てずにはいられない。
「、…ああ…そうだね。私はあなたの気持ちなんて、これっぽちもかんがえないさ」
彼は少し驚いたように息をのんで、それから皮肉めいた笑顔を零した。その顔は、今まで彼と一緒にいて初めて見る表情だった。そんな顔をされたら、私はこみ上げる感情を押さえられないではないか。私はついに堪えきれなくなって、彼の側に崩れるようにしゃがみ込んでしまった。そして彼の手をとって、握りしめる。目を閉じて、深呼吸をすると、ふと初めて出会ったときの記憶が目の前を駆けていった。おびただしい肉刺とささくれがあるのを感じた。
「本当に、最初から最期まで、最低だよ、君は」
酷い安堵と同時に、私は彼の手に顔を埋めた。埋めずにはいられなかった。視界いっぱいに闇が広がる。まだほのかに暖かい彼の体温を感じる。そこには確かに、まだ確かに彼がそこにいる事を証明していた。
「はは…ありがとう、最高の褒め言葉だ」
彼は多分気がついている。私が今、感情を抑えきれなかった事に。こんなみっともない姿が彼の手向けになるなど、私には耐えられなかった。でも、それ以上に彼を失う事で私の大部分を失ってしまうような錯覚に陥って、恐怖を覚えたのも事実だった。私はまだ彼のように大人でなくて、物事を冷静に捉えることができない子供でしかなかった。世界が暗転するのだ。彼がいないだけで一寸先が闇になる。私の目の前で照らされ続けてきた道は彼の向こう側にあったのに、彼がいなくなるだけでその方向さえ見失う。
「そういえば、最初に会った時も、こんなやり取りしたんだったね…利吉さん。利吉さん、迷子だったんだ。あのとき、利吉さんは迷子だったんだよ。だから私は道しるべになった。利吉さんが、道を見失わないように。…でも私の役目は、もう終わったんだ。利吉さんはもう、一人でも歩いていける…終わったんだよ。私はもう、道案内しなくていいのだから」
私はどきりとした。まるで心を読まれたように、いや、まるで以心伝心かのように、彼は私が考えている事とほぼ同じ事を言ったのだ。でもそれは、まるで私の考えを否定しているように聞こえた。こんなときに、まさか突き放すって言うのか。私は彼の手から顔をあげた。視界の端で水滴が一粒、地面に落ちていく。
「何を言って…早く忍術学園に戻って、新野先生に処置してもらうんだよ」
私の口から出たのは、鼻水をすすった後のようなずいぶん濁った自分の声だった。
「…いいかい、利吉さん。私が今日死ぬのは、予定調和なんだ。くつがえしちゃいけないよ」
「、僕は、」
「もう、いい。もういいんだ、もう、寝る、よ」
彼の手から力が抜けていくのを感じる。まるで消えそうな灯火が目の前にあって、でもどうしようもできない自分がいるかのようであった。私は彼の手を力一杯握ることぐらいしか、できなかった。
「…りがと、利吉さ、…あ…してる」
彼は笑った。一筋の涙をその頬に残して、逝った。最期まで、本当に最低な奴だった。私のことを、ここまで苦しめて泣かせる奴は、今までもこれからもこいつ1人しかいない。そして彼のことをこんなにも愛していた事に、今更になって気づかせてきて、本当に彼は、私の性格を一等わかっていてこんなふうに仕向けるのだから最低だ。だからもうこの瞬間に、私は彼以外の人を愛せなくなってしまっていたのだ。