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「…、おきて」
優しく撫でるような声が耳の近くを掠めてくすぐったい。先ほどまで、ふわふわとした雲の上を漂う夢を見ていた、そんな気がする。柔らかくて気持ち良くて、蕩けてしまいそうな夢だった。誰かの手を握っていたぬくもりもあった気がするけど、夢は夢でそれ以上もそれ以下もなくて、半分以上覚醒した今は、話しかけてくる相手を無視して目を閉じているのも居心地が悪くてできなかった。狸寝入りが苦手な俺は観念して、まどろみに背を向け、嫌々重い瞼をこじ開ける。
だが、そこは仄暗い暗闇だった。何度か瞬きをするうち、この黒は自分の布団だと気がついて安堵を覚えた。張り詰めていた思考が緩んで、寝返りを打つ。頭まで被っている布団がこすれ、外から光が零れてくるのを感じる。明るい自然な太陽光だ。もう太陽が出ているのか。…そういえば今は何時だろう。そこまで思い至って、自分がいつベッドに、どうやって入ったのか全く覚えていないことに気がついた。布団をばさりと跳ね飛ばし、仰け反るようにして上半身を起き上がらせる。ぎちり、とスプリングのバネが跳ねた感覚が、上半身を揺さぶった。見慣れた蛇腹式のクローゼットを正面に見て、その左手の大きな窓ガラスから差し込む太陽の光が、まだ今が朝の早い時間であることを教えてくれる。
間違いない。ここは自分の部屋だ。そっくりなんてものじゃなくて、部屋そのものだ。窓ガラスの外側にある手すりに二羽のスズメがとまっていて、チチチ、と鳴きあって飛び立っていく。眼下に広がる街並みがじっとり朝露を吸い、朝日を受け乱反射し光っていた。昨日の朝、俺が家を出た時となんら変わらない、その光景に拍子抜けする。
「おはよう、」
けれど、目覚める時に聞こえていた声は昨日はなかったし、撫でるような声で俺の名を呼ぶので、ここが自分の部屋では無い、なんて錯覚してしまいそうになった。俺の眠るベッドの隣にあるスツールに腰掛けるヨハンは、赤いネクタイに黒いスーツを着ている。その服になぜか見覚えがあり戸惑ったが、十代が以前見にまとっていたものにそっくりだと気がついて納得した。そもそも、ヨハンがこういう色合いの服を着ているのは意外だ。アカデミアで着ていたオベリスクブルー寮の制服のイメージが強いからだろうか、それともその髪の色と目の色の印象のせいだろうか。でも俺は、やっぱりヨハンに赤は似合わないと思った。しばしズレた思考のまま、ぽかんと見つめていると、くすくすと笑う声が耳について慌てて意識を戻し、口を閉じる。ヨハンは俺のほうに何気無しに手を伸ばしてきた。なんだと思ってその手に視線をやり、咄嗟に身構えたが、彼の手は俺の頭の上にぽす、と置かれた。
「ふは、、寝ぐせついてるよ」
間抜け顔を晒しながら、俺はせっかく閉じた口をまたあんぐりと開けてしまう。頭のてっぺんを撫でるヨハンの手つきは、友人にするようなフランクなものではない。甘ったるい砂糖菓子を詰め込んだ雰囲気が漂う。寝ぼけ頭はすっかり覚醒していたのにも関わらず、頭を撫でられていることに妙な安心感を一瞬でも感じてしまった俺は、大の大人が何をされているんだと、流石に照れ臭くなって顔に熱が篭る。やんわりと、彼の手を外すように払った。
「…いつまで撫でてんだよ」
「ごめん、つい」
押しのけられた手をハンズアップして降参のポーズをするヨハンは酷く上機嫌で、緩み切った表情筋が発言と噛み合わずにチグハグだ。隠そうともしない悪びれる様子のなさに、大人気なくイラッとする。だが、朝起きぬけに怒ってエネルギーを消費する気にもなれず、鳴りそうなお腹に力を込めぐっと我慢する。ヨハンがなぜ自分の部屋にいるのか、なんでこんなに上機嫌なのか。しかし、ふつふつと湧いて出る疑問の答えを憶測する前に、くるくると回り始めた視界と気持ちの悪さに、思考回路は切断された。息を吐いてため息をつくようにし、頭をガシガシとかいて紛らわす。そこで髪の毛がやけに湿っていることに気がつき、寝汗をかいたのだと知った。そのことにまた不快感を覚えつつ、俺はヨハンになんでもない風に尋ねた。
「…で、何?」
「ああ、鍵を返しに来たんだ」
「鍵?」
「昨日、すごく酔ってて運転できないみたいだったからさ、借りたんだよ」
ヨハンがこちらに鍵を差し出して、しゃん、と鍵についているキーホルダーの鈴が鳴った。ぼんやりと、昨日ヨハンに鍵を渡したような記憶が断片的に思い出される。
「…悪いな」
「いいさ。車は駐車場に停めておいたから」
受け取った鍵を手のひらで転がしながら、昨日のことを思い返す。ああ、そういえば昨日はヨハンと飲んだんだ。アインシュタイン博士の奢りで飲んでいいと言われ、ヨハンと飲み比べをしたのだ。けど、飲み比べで何を飲んだか一つも思い出せないし、店で何を話していたのかもわからない。あまつさえ、帰路についた時の記憶さえ正直曖昧だった。考えれば考えるほど思い出せなくて、終いにはズキズキ重みを増した頭に首を垂れる。
「?どうした、頭痛いのか?」
ヨハンが心配そうに尋ねてくる。頭を縦に振る動作ですら、堪えるものがあった。まさか二日酔いでもしたのか。頭が重たくて正常な思考が働かなくなってきて、いよいよ俺は二日酔いを認めなければならなかった。無理に口を動かすといらぬものまで吐いてしまいそうだ。
「おい、、。大丈夫かよ」
ヨハンが心配そうに顔を覗き込んでくる。でもその顔の近さにリアクションを取れるような余裕もなくて、俺はヨハンから顔を背け、崩れるようにしてベッドに全身を預けた。枕に頭を突っ伏して、口に手をやり、声にならない呻きを上げる。くそ、布団に吐くなんて冗談じゃない。せめてゴミ箱があれば、と俺は部屋の隅を睨むように見た。
「…、もし吐きそうになったらこの中に吐けよ。あ…そうだ、ちょっと待ってて」
先ほどまであたふたと俺を伺っていたヨハンは、俺の顔色の悪さと仕草で察してくれたようだ。部屋の隅にあるゴミ箱を、俺が粗相しても大丈夫なようにベッドの横に置いてくれた。それから何かを思い出したように部屋から出て行った。矢継ぎ早にヨハンが慌ただしくなって、遠ざかっていったので、自分の部屋がすごく静かになったのを否応にも感じる。
状況整理に躍起になる脳の動きと比例して、頭痛が酷くなる。これはもう何も考えないのが吉か。俺はベッドの布団と毛布をぐしゃぐしゃと手繰り寄せて、抱き枕のようにして抱きしめた。吐くのは自分のプライドが許さなかったので、意地でも横たわっていると幾らかマシになった。
「……ん?」
そこでふと、自分の服が昨日と違うことに疑問を覚えた。昨日はスーツを着ていたはずだが、今はトランクスとTシャツしか着てない。しかもそのTシャツにまったく見覚えがなかった。自分のものでも、十代のものでもない。それにトランクスも自分のものじゃないときた。どちらも若干サイズが大きいし、新品にもみえなかった…まさか、本当にまさかとは思うが、ヨハンと関係を持ってしまった、なんてことは…いや、でもヨハンはそういう事を平気でする奴じゃない。なにせアカデミア時代にそういう話題になった時、真っ先に真っ赤になっていたやつだ、そういうことにウブな奴が、酔って意識のはっきりしないやつを…なんてあり得ないだろう。そもそもヨハンは昔好きだと言ってくれていただけであって、今も俺を恋愛的な感情で好きだとはっきり言われたわけではないのだ。だから、昨日着替えた記憶がないのは、ヨハンが着替えさせてくれたと考えるのが自然だとは思う。けど、下着まで取り替えてあって、ズボンがないことだけは全く腑に落ちなかった。別に女じゃあるまいし、男同士で恥ずかしがることはなにもないはずなのに、下着まで取り替えられるような状況になることが理解できない、いや理解したくない。頭の痛さと気分の悪さはそのままに、脳の芯がすっと冷えていく。
自分の妄想に似た考えを否定したい気持ちでいっぱいになりながら、現状を理解しきれぬまま半端な予測を立てて堂々巡りするうち、ヨハンが戻ってきた。
「、酔い止め持ってきたよ…、どうした?」
「いや…なんでもない」
「…そう?」
早とちりで自分が勘違いしているなどと思われたくなくて、今はこれ以上考えるのをやめた。なにより、自分が想像していることが現実に起きていないと、自分自身に言い聞かせることぐらいしかできなかった。
「ほら、薬」
「…さんきゅ」
ヨハンが酔い止めの薬と水の入ったコップを差し出してくる。布団を抱きしめるように埋れていた上半身を起きあがらせ、礼を言って、錠剤を包みから取り出し、水を口に含んで一気に飲み込んだ。あまりヨハンの顔を見れぬまま、空になったコップをサイドテーブルに置き、息をつく。冷たい水が胃を刺激して、少し身震いした。
「、今日は午後から仕事だろ」
ヨハンがスツールにまた腰掛けていて、俺を見ながら思い出したように声をかけてくる。柔らかな朝日に包まれたヨハンの、青い髪がキラキラと光っている。その眩しさに不意に目を細めながら、今日は休みではなかったかと、ヨハンの発言に不安を覚えた。俺は慌てて、サイドテーブルに置きっ放しになっていた鞄から、寝そべった体制のまま手帳を引っ張り出して予定を確認する。
「…マジだ」
「おいおい、昨日自分で言ってたじゃないか」
手帳を見て愕然とする様子を、ヨハンにくすくすと笑われ、羞恥心が沸々と湧いて、顔に熱がこもるのを感じる。なんだってこんなにヨハンは笑うんだ。訳がわからぬまま、俺は不貞腐れて返事もせずにベッドに逆戻りした。手帳を鞄に戻すのも億劫で、手帳を二つある枕のもう一つのほうに乗せて、大きくため息をついた。今はまだ遅刻こそしない時間だが、二日酔いのせいで気分は最悪だった。
「まぁ、あれだけ酔ってたらなぁ」
なんだか居たたまれなくなってきた。ヨハンの茶化すような言葉も右から左に通さないとやっていられない。
「…これだから酒は苦手なんだ」
「俺の酒を奪って飲んでたやつがよく言うよ」
そう皮肉って、ヨハンはまた柔らかく笑う。さっきから含みを持たせた言い回しに、つい眉を寄せてしまう。ヨハンが上機嫌な理由がわからなくて、余計もやもやする。頭の痛さはまだ薬が効いていなくて酷いが、水を飲んだお陰か幾分か吐き気はマシになっていた。この際だから、何があったか聞きたい。記憶を無くすほど酔ったとあれば、ヨハンに他にも迷惑をかけているのは間違いない。
「…昨日、」
「ん?」
「俺、何か言ってたか」
だからなんとなく、俺は何をしたかではなくて、何を自分が言っていたのかを確かめてみることにした。
「…、何言ってたか覚えてない?ああ…全部覚えてないんだ」
でもヨハンには通じなくて、逆に裏目に出てしまったようだった。俺は黙ってしまう。その行動がヨハンにある確信を持たせたのだが、この時の俺は何を言っていたか思い出そうと躍起になっていたから、ヨハンの異変に気がつかなかった。
「楽しそうに話してたよ。十代の…あんなやつのこと」
あからさまで棘のある言い方に、俺はハッとして顔を上げた。彼は普段、悪態をつくなんてことなかったから、ヨハンの口から十代を、蔑むような言葉が出てくるなんて想像もしなかった。彼は苦虫を噛み潰した、苦渋の表情で言葉をつむいでいる。
「が十代を好きな理由が、…わからない。なんで…なんで、そこまでして十代のこと…。のこと、あいつこれっぽっちもわかってないじゃないか…」
ヨハンはそこで、言葉を詰まらせた。視線を彷徨わせ、言葉選びを間違えてしまったように、何度もつっかえて、それでも思いの丈を吐き出そうとするヨハンを見るのは、これが初めてだった。戸惑いを覚えながらも、俺はヨハンが何を言いたいのか、何となく勘付いていた。
「…覚えてる?アカデミアの喫茶店で告白したこと」
忘れるわけがない。肌寒い小雨が窓を叩く席で、コーヒーの香りに包まれながらヨハンの気持ちを打ち明けられたこと。あれから俺は、ずっと自分の想いを整理しつづけている。十代には決して打ち明けてはならない感情を、心の中で燻らせたまま、永遠に叶わない恋心と、劣情を処理するために。
「ずっと忘れようとしてたんだ。は、あいつのこと本当に好きなんだって思ったから」
ヨハンが俯いていた顔を上げた。決意を秘めていて、でも今だからわかる後ろめたさを持つ揺らいだ瞳が、俺の心を刺した。"あの日"と、同じように。
「…でも、やっぱり好きだ。が十代のこと、諦めきれないみたいに」
「…っ、」
ふわりと香った自分のものではない匂いで、ヨハンに抱きしめられているのだと理解する。彼の香りに、酷く落ち着く自分がいることに戸惑う。この匂いは、十代の匂いに似ている。なのになんで、ヨハンも同じ香りがするのだろう。ぐちゃぐちゃになった布団のシーツから覗く自身の素足に、自分の服装を思い返し、居心地の悪さを感じて身じろぐと、ヨハンは身体を離して、顔を見合わせるように肩を寄せてくる。
「もうこれ以上、が傷つくの黙って見ていられない。…、お願いだから、俺のこと好きになってよ」
ヨハンの覗き込むような青い瞳が、じっとりと潤んでこちらを見ている。射抜くような視線に囚われて、俺は動けなかった。こんな真剣な表情で、俺よりも泣きそうな顔で、俺のことを、好きだと言うこの男が、すごくいい奴だってわかっていた。けれど、俺がヨハンに抱く気持ちと、ヨハンが俺に抱く想いが交わっていないことを、はっきりと感じていた。ヨハンの劣情が己に向かっていることに、酷く心が痛む。今、彼を受け入れてはいけない。通じあわない状態で関係を持ってしまうことをしたくなくて、縋るように抱きしめてくるヨハンを突っぱねようとした。
「ヨハン、っ…俺は、」
その時、バン、と音を立てて扉が開いた。ヨハンは俺を抱きしめたまま、振り返らない。俺はヨハンの肩越しから、唖然として、扉を開けた彼―――黒いシャツに赤いネクタイを揺らし、息を切らした十代と視線を合わせた。ほんの数秒だけ交わっただけなのに、俺はカッと頬が熱くなって、嫌に後ろめたい気分になった。別に悪いことをしているわけじゃない。十代と付き合っているわけでもない。ただ、ヨハンと抱き合っているところを十代に見られたことに、羞恥を覚えた。
「じゅうだい、」
存外に掠れた己の声が、無意識に彼の名を呼ぶ。ヨハンが、その名を待っていたようにゆっくりと十代のほうを振り返って、俺を拘束していた腕を離し立ち上がる。ヨハンの表情がどうだったか、見ている余裕はなかった。俺は十代から視線を逸らせなかった。今まで見たこともないような冷たい瞳が、俺を突き刺している。この数秒だけ、時が止まったように何も音がしない。十代も、俺も、ヨハンも、何も言わなかった。
それから、十代は手に持っていた紙袋を落とした。瞬間、肌が粟立つ。本能が逃げることを訴えるように、体がぶるりと震える。嫌なことが起きる。そう瞬時に感じたものの、指先さえも動かせずに俺は硬直していた。
「…っざけんな…ふざけんな!」
怒りに震える十代の大声に、とっさに瞼を閉じてしまう。その直後、俺はヨハンが十代に殴られたその身を、フローリングに投げ出すまで、スローモーションビデオでも見ているかのような気持ちで見つめていた。
それは、最悪の状況だった。