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夜。部屋に帰っても十代は居なかった。一人でいるには広すぎるリビングには、テレビもオーディオデッキもない。ガラス張りの壁からは高層ビル特有の美しい夜景が眼下に広がっている。しかしそれも季節外れの雨でぼんやりと滲んでいて、やけに首の後ろがチリチリとして落ち着かなかった。一度キッチンに行って、気分を変えるためのコーヒーを淹れるための用意をする。使い慣れたコーヒーの一式だけはどこに置いてあるのか把握している。自分専用のコーヒー棚になりつつあるそこを開けて、コーヒーミルとお気に入りの焙煎豆、コーヒーカップやソーサーが詰め込まれた小ぶりなバスケットを片手で持ち上げる。それからリビングに向かって歩き出す。カチャカチャと金属製のスプーンとマドラーがリズムに合わせて音を奏でるのが心地よくて、ほんの少し上機嫌になる。
十代はコーヒーを飲まない。一方の俺はカフェイン中毒みたいなもので、毎日コーヒーを1杯飲まないと落ち着かない。コーヒー豆をミルで挽くことが好きで、まとまった時間があればこうして、ソファーにどっかりと腰掛け、くるくるゆっくりと回すのだ。この瞬間がたまらなく好きだ。
久しぶりの感覚が心に少しの安堵を思い起こさせる。そういえばいつからだろう、こうしてコーヒーを飲むようになったのは。挽き終わったコーヒーをドリップし、出来たてを飲む。独特の苦味と酸味が広がって、ほう、と息をついた。先ほどまでぼんやりとしていた意識が覚醒するのを感じる。
ああ、そうだ。俺がコーヒーを初めて飲んだ時は、こんな風に静かに雨が降る少し肌寒い日で…
ヨハンと、一緒だったのだ。
***
アカデミア時代、ヨハンと俺は折り合いが悪かった。今となってはあまり顔を合わせることすらなく、事務的なメールをいくつかやりとりした程度で、学生のあの時から、こいつと会話するネタがないかぎり話しかけなかったものである。でも十代が俺とヨハンの間にいるだけで、俺たちは数年来の友人のように気さくに話し合うものだった。周囲の友人にはよく、お前とヨハンの関係はよくわからないと言われていた。俺もよくわからないと心の中で思いながら、笑ってお茶を濁したものだ。
なぜ俺がそんなヨハンと一緒に、しかも当時それほど好きでもなかったコーヒーを飲むことになったのか。
アカデミアの頃から、俺は十代が好きだった。ヨハンは十代と互角のデュエルの腕前を持っており、何かにつけて一緒にいることが多かった。デュエルで十代に一度も勝てたことがなかった俺からすれば、ヨハンは羨望の対象であり、同時に十代と仲が良すぎて気に食わないやつでもあった。だからヨハンがデュエルを申し込んできた時は、それはもうコテンパンにのしてやるのだった。当時の俺のデッキはヨハンのデッキに対して相性が良くて、気持ち良いぐらいボロボロにして勝つのが常だった。
なのに授業で一度だけ、俺はヨハンに逆転負けを許したことがある。あれは確か真夏日の合間の、季節外れなくらい肌寒い雨の日のことだった。授業終わりに、ヨハンはひどく満足そうに、機嫌良く俺に誘いをかけてきた。少し話をしないか、と。はじめは断ったものの、ヨハンはなぜかその時ばかりはしつこく誘うのだった。俺は悔しかったのもあったが、ヨハンから今日のデッキ構成を見せてもらうことと、ヨハンのおごりでカフェに行くということを条件につきつけた。わざわざ勝ったのにおごらされて手の内を見せろなんて言われて、頷くようなバカはいないだろうとタカをくくっていた。
結果、俺はヨハンとカフェに居た。ヨハンは、手持ちがないから一番安いコーヒーで勘弁してくれと言う。先ほどデュエルの興奮も少し覚めたところだった俺は、流石に留学生に払わせるのも人情に欠けるし、かといってコーヒーを飲んだことがないとヨハンに言うのも、俺の変なプライドが邪魔をして言えなかった。
ヨハンが戻ってきた。トレーにはどす黒い液体の入ったカップが二つ。独特の匂いが鼻腔をくすぐる。持ってきてくれたことに礼を一言告げ、内心ドキドキしながら手を伸ばすが、出来るだけ動揺を出さないようにする。なんだこれは、本当に飲むものなのか。匂いがやけに気になって、俺は口をつけないまま机に置いた。
ヨハンは気にした様子もなくテーブルにトレーを置くと、向かいのソファにどかっと座った。
『ああ、ついにに勝ったのかぁ』
なにが嬉しいのか、いまだにニコニコと笑みを絶やさないヨハンは、はたからみても少し気味が悪い。こんなに締まりのない笑顔を炸裂させているヨハン見たことがない。なんだかその言動にイラっとする。
彼は砂糖も何も入れずにコーヒーに口をつけた。こいつブラックで飲めるのかと驚きながら眺めていたら、そこでヨハンは俺が一口もまだ飲んでいないことに気がついてしまった。
『俺のおごりだぞ。感謝して飲めよ』
『ああ、』
ちょっと皮肉ったように俺にコーヒーを勧めてくるヨハンは、別段俺のことをバカにしてそう言ったのではない様子だった。だからこそ、わかったよと返事してしまったのだが、俺は困っていた。味が不味そうだからという食わず嫌いならぬ飲まず嫌いをするなど、だだをこねた子供のようで、ヨハンの前でそれを露呈するのも恥ずかしく、かといって飲むにはいささか勇気が必要だった。しかし、もう俺の手の中にはコーヒーの入ったカップが、ほぼ無意識で握られている。ここまで来たら男の意地だ。意を決して口づけ、傾ける。
鼻で息をするのを止めて、一口すすってみる。すると、案外飲めなくもないと気がつく。苦いには苦いが、後味が濃くないのですっと飲むことができる。なんだ、コーヒーっていうのは案外美味しいのかもしれない。でも、やはり苦いものは苦い。カップをソーサーに戻す。
ヨハンは俺のその機微を知って知らずか、ふふ、と笑った。突然脈絡もなく笑い出すものだから、俺は少し気分が悪くなって、むっとして彼に問う。
『…なんだよ?』
『いいや、なんでもないよ』
嘘だ。彼の目は左上を見た。あれは、ヨハンがなにか後ろめたい事があったり、隠し事をしている時の癖だ。何度もデュエルで対戦してきたからこそわかる、ほんの些細な癖。絶対に本人には言ってやらないが、それはある意味、ヨハンが出すサインのようなものだった。
『なんでもあるだろ。どうせ何か隠してんのは分かる、』
するとヨハンは驚いたようで、口をわずかに開けた間抜けな表情で、こちらをじっと見てきた。かと思うとそれはほんの1秒ほどで、すぐ破顔してふにゃりと照れくさそうに笑った。なんだかその笑顔が馬鹿にしているようにしか見えなくて、自分がむすっとした表情になってしまうのを否応無しに感じる。
『…には敵わないなぁ』
少しだけ、ヨハンの声のトーンが下がる。あれ、と思った時には既に、ヨハンのいつもの顔からは想像もつかない無表情があった。
『その、真面目な話なんだけどさ。…言っておきたい、事があって』
俺はヨハンの声が小さくなって行くので、何を言うのだと耳をそばだてる。しとしとと降る雨の音がうるさいわけではないが、なんとなく聞こえないと困るので、深く腰掛けていたソファから身を乗り出して、一言も逃すまいとヨハンの発言に神経を集中させる。一体何を聞くんだろうか。先ほどのデュエルのことだろうか。それとも、このコーヒーのことか。はたまた、近々あるテストのことだろうか。思案するものの、ヨハンは言葉に詰まっているようで、言葉にならないうめきのような声を少しあげて、また口を閉じてしまう。
『なんだよ?』
『うん…いや、言っていいのかなあ』
ずいぶんと躊躇しているが、一体何を話しだすんだ。そんなに話しづらいことなら、別段俺に言う必要はない。俺はこれといってヨハンと仲が良いわけでもなく、しかも彼から相談事なんて受けたことがないから、そういった何かを持ちかけられても明確な答えを返せる自信はない。というかヨハンは俺に、一体何を言おうとしているのかわからない。もしなにか彼に粗相をしてしまったとかなら謝れるが、彼の様子を見る限りそういう話題ではなさそうだし。
『聞かないと、わからないだろ』
『…ああ、だよな』
『ヨハン』
『…分かった、言うよ。言うから、ちょっと深呼吸させてくれ』
はっきりしない態度に痺れを切らして避難するように名前を呼べば、ヨハンはいよいよ困ったように眉根を下げて笑い、ふうと息をついた。それから真剣な眼差しを此方に投げつけてくるので、俺は何を暴露するのだろうかとほんの少しだけ身構えた。
『ーーー好きだ』
時が止まった、なんて陳腐な表現で表せないほど、その一言は俺の心に一瞬の静寂の後、嵐を運んできた。音の連鎖から意味を噛み砕くまでに脳のシナプスは限界を訴え、いよいよ俺に白い映像を提供してくる。
『俺は、が好きだよ』
突如として甘い柔らかさを持った彼の祈るような繰り返しが、自分の心をゆったりと侵略する奇妙な感覚に陥る。
『ヨハン、』
『いいよ。返事はノーでいい』
眉根を下げてそう言ったヨハンが、緩慢とした動作でコーヒーを煽るのを、人ごとのように見ていた。俺は言葉を返せなかった。ヨハンは人差し指で頬を掻きながら、苦笑いをした。まるでそれが、暗に俺の十代に対する恋心を知っているかのようなそぶりに見えて、ヨハンは一言も十代のことを言っていないはずなのに、こんなにも追い詰められた気分になっている自分がいることに、嫌悪を覚えずにはいられなかった。机の下、膝の上で握りしめた自分の掌がひんやり冷たいのとは裏腹に、心臓は体に血流を巡らせようと躍起になる。
『俺はが、幸せだったらそれでいいんだ。でも、俺の気持ちも知っておいてほしくて…ごめん、矛盾してるな』
少し早口に言って、真剣な表情をしていたヨハンは、最後に一言謝罪をしてコーヒーを飲んだ。ヨハンの視線が外れて、俺もなんとなくカップを持ち上げて、燕下する。まったく喉は乾いていなかったし、ついさっきまでコーヒーが美味しくないと思っていたはずなのに、この時の味はまったく記憶に残らなかった。窓を叩く雨の音が、誇張されて聞こえる。
『実は、あと一週間したらアークティックに帰るんだ。でも、は日本に住んでるだろ。…だったら、俺に勝ち目はないから』
どこか切なげな優しさの匂いが、コーヒーと一緒に漂ってくる午後。この時、ヨハンは確実に、俺の十代に対する恋慕に気がついていた。半ばパニックだった俺が、ヨハンのさりげない気遣いに助けられていたのに気がついたのは、この出来事から数年経った今だ。
ヨハンは、あの時俺が持っていないものを持っていた。恋が叶わないのを知りながら、その気持ちを伝えること。相手にイエスを貰えないと分かっていて、それで傷付いてもなお、相手に面と向かって言葉を紡いだ。勇気ある行動だ。けど、こんなにも俺の感情をかき乱しておきながら、相手は涼しい顔して達観した様子で諦め、自己完結してる。まるで自分を見ているようでムカついて仕方なかった。さらにタチが悪いことには、俺はヨハンみたいに、相手に伝えてさっぱり割り切るような自分に区切りをつけられるような性格をしていなかったのだ。ああ、だから俺はヨハンが嫌いだったんだ。無い物ねだりの感情をヨハンに抱いていた。その怒りの矛先は、回り回って自分に向かっているとも気がつかずに。
結局、あの時から俺は、俺自身が嫌いだったんだ。