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十代と喧嘩した。十代は家を出たきり、帰ってこなかった。
理由は本当に単純で、かつ明快である。なぜならその最たる原因が、俺にあるからである。自分自身頭に血が上っていたものだから支離滅裂なことを言っていた気がするが、その論争は俺の異世界行きについての話が持ち上がった辺りがピークだったと思う。とにかく、十代は俺の異世界行きを真っ向から反対。否定。しまいには十代が仕事を代わりにやるとさえ言い出す始末だった。カチンときた。こない方がおかしい。俺がこの仕事を選んだのはーーーまあ、昔こそ好きな人を追いかけたい心もあったが、それだけではなくて、この仕事に本気で一生を捧げても良いと感じたからである。だのに、その選択が間違っているなどと否定されたら、いくら数年来の思いを寄せる人とはいえ、黙っているわけにもいかなかった。しまいに喧嘩はエスカレートして、俺から会話を切るように部屋に逃げ込んだのだ。結局、次の日になっても十代と顔を合わせることはなかった。十代は今日は出張でいない。タイミングがいいのか悪いのか、俺はなんとなく謝るタイミングを見失った気がして、静かになった部屋で1人、がっくりと肩を落とす。幼稚な喧嘩に我ながら後悔の念を覚えずにはいられなかった。ああ、昔喧嘩したときはこんなに、後味の悪いものではなかったというのに。
ペガサス会長の頼みごとを引き受けてから3日目。ーー十代と喧嘩してから、丸2日経った、今日。会うべき人がいると会長に言われ、日本からドイツへとやってきた。恐れ多くも自家用ジェットをお借りして、しかもわざわざ専用パイロットや通訳までも手配してもらって、ここミュンヘンに来たのである。感謝してもしつくせない思いをペガサスさんに抱いたまま、海外に来たとは思えないほど身軽な格好でジェット機から降りる。時刻は正午。多少寒さを感じるが、快晴のため日差しは暖かい。秘書によってきっちりとタイムスケジュールが組まれているので、俺はそれにただ従うだけである。申し訳なさとほんの少しの優越感を心の隅に感じながら、セキュリティの厳重な通路を抜けて混雑する空港を後にした。今思うとVIP専用の通路だったのかもしれないが、こうした機会がない限り二度と通ることはないだろう。自分でそう思っておきながら、ほんの少しだけむなしくなった。
車に乗り換えて1時間ほど揺られると、市街地から離れた敷地に大学のような巨大な建築が設置されたその中庭へと車が進んでいき、適度な位置で停車した。芝生の青い中庭に、石畳の道路が建物の入り口まで一直線上にのびている。街路樹が整然と並んでおり、レンガ造りの色合いによく映える蔦が建物を彩っている。時代を感じさせる銅像を横目に、俺は建物の中へと足を進めた。
同伴してくれている通訳のあとに続いて通された部屋は、教授の研究室のようだった。うず高く積まれた書類や本、地球儀や生き物のようなレプリカが所狭しと置かれている。普通のものより大きい黒板は、ほとんどが白で埋め尽くされていて、もとの色がわからないほどであった。全体的に木目調の部屋であるため古めかしく感じるが、その部屋の片隅で背もたれのあるイスに深く腰掛け、分厚い本を開いているご老人の見てくれも、歴史を感じさせる貫禄があった。大学というものを知らない俺は今、とてつもなく緊張していた。何もかもが見覚えのない風景というのもあるし、なにより非日常に自分がいることで、余計自分が自分でないような奇妙な感覚に陥っていたのだった。
『はじめまして。・です。日本からやってきました』
簡単なドイツ語で自己紹介すれば、ご老人は大変嬉しそうな顔でドイツ語の自己紹介を返してきた。名前がアインシュタインであること以外、俺は理解できずにちんぷんかんぷんだった。通訳さんが助け舟といわんばかりに、アインシュタイン博士に何事かをドイツ語で伝える。
すると博士は一度驚いたように通訳さんに聞き返して、それに通訳さんが頷けば博士がほう、とため息をついた。
博士の視線が俺に向かって、一度にっこりとわらった後にこう話しだした。
「すまんね、くん。君があんまりにも流暢に自己紹介するものだから、ドイツ語を喋れるのだと思ってしまった」
驚きのあまり返事ができなかった。立派な白ひげを蓄えて、いかにも洋画や童話の1コマに登場しそうな見てくれの老人が、こんなに流暢に日本語をぺらぺら喋り出すなど予想の範疇になかったからだ。俺が先ほど流暢に(といっても自分ではそのように流暢だった覚えはないのだが)ドイツ語で紹介したことで博士を勘違いさせたことを少し皮肉っているようだった。なぜ初対面なのにそんなのがわかるかといえば、してやったり、その言葉が今の博士の表情にありありと浮かんでいるからである。至極嬉しそうに微笑んでいるが、口元が少しニヒルな笑みのそれだった。大学の博士と聞いていたから、もっとお硬いイメージを持っていたが少なくともこの博士は違うようだ。とてもユーモアあふれる人物なのかもしれない。とにかく博士に抱いた印象は悪くないものだった。少しあって、俺はふっと笑いをこぼした。博士も楽しそうに笑った。
「私はアインシュタイン博士。話はペガサスくんからたっぷり聞いてある。さあ、こちらにおいで」
先ほどまでガチガチに緊張していた自分がまるで嘘のようだった。一言、席を勧められた事に礼を述べて、博士と向き合う形で座る。がっしりとしたなめし革でできた、いかにも高そうなアンティーク調のイスの座り心地は、とてもよい。年季が入っているように見られるのに、綺麗に手摺の木目が 光沢を放つのは、手入れが行届いている証拠でもあった。
ふぅ、と俺が小さく息を漏らすと、博士が何事か思いついたように立ち上がった。
『おお、まずお茶を入れよう。はるばる遠い日本から来たんだ、疲れているだろう』
博士は俺が言葉を脳内変換する前に、博士は何事か準備を始めた。日本語でなかったので、俺はちんぷんかんぷんで、博士が何をしようとしているのかわからなかった。通訳の方から訳してもらって、始めて博士がわざわざお茶を準備してくれようとしているのを知る。
『ああ、博士。手伝います。それから、できる限り日本語でお願いします。こちらの方は、本当にドイツ語は昨日覚えたばかりなのですよ。自己紹介だけで、リスニングの力は皆無なのです』
『ああ、そうだったそうだった。君があんまり上手だからつい。』
同行していた通訳の方が、博士とドイツ語でテンポ良く会話する。まるで遠い世界で起きていることのように見えて、俺は思考を飛ばしかけた。まるで洋画のワンシーンのようで、現実味を失いそうになる。
「わるかった、くん。私の悪い癖だ。ドイツ語が話せる人がいると、つい気が緩んでドイツ語を話してしまう。私は日本語を読むことも、聞くことも好きなんだ。でも喋るのが苦手でね。…これでもいっぱいいっぱいなんだ。私は今、ものすごい混乱しているよ」
博士が照れたように頭をかいて、はにかんだ。それから、また少し固まって、通訳の方にドイツ語でぺらぺら、と喋った。秘書の方は首を縦に振って、博士の手元にあったティーカップやポットをうけとり、奥の部屋に消えていった。博士は心なしか嬉しそうに、手を擦り合わせて、無数の本が折り重なるように積まれた机と机の間を縫うように歩き回る。俺はここまでの会話の内容を咀嚼するのでいっぱいだったが、博士の人間臭さというか、俺と同じような一面を垣間見た気がして、少し安心したのも事実だった。博士は結局、最初に座っていた椅子に腰掛けた。博士の後ろにある窓からこぼれ落ちて来る日の光は、レース素材のカーテンにゆられて、優しく部屋に注ぎ込んでいる。
「ペガサスくんから聞いたんだがね、君は熱心に仕事をするとか」
「そんな、大げさですよ」
「なにをいう。君の雇い主から直々の推薦だ。それも、仕事も頼まれたんだろう。なかなかできるもんじゃない。ペガサスくんは、人を見抜くのが一等長けているからの…ほっほ」
声高らかに笑う博士を見て、握りこぶしに込めていた力が、一時ほぐれる。それから、すごく期待の篭ったまっすぐな目が、こちらを射抜くのを見た。互いに微笑みながらも、独特の緊張感が生まれるのを感じて俺は少し背筋をのばし、それからくつろいでいた手を膝の上に戻した。
「さて、仕事を始めようかの。お茶ができるまで少し時間がかかるからね。私も君も、忘れないうちに話してしまおう」
博士は、立ち上がって机の上から何かを取り出した。そしてジェスチャーで、こちらにおいでと俺に催促する。慌てて立ちあがって博士の書類だらけの机の前に立つと、書類の山の中にごろりと転げられた木箱と、博士の手に鈍く光る何かがあることに気がついた。
「気になるだろう。これが」
博士はほれ、と言って俺にそのチョーカーを渡して来た。クリスタルのような半透明な石が嵌めこまれた雫型のペンダントトップの上半分が、不自然にチョーカーに埋め込まれている。チョーカーは灰色のような茶色のような曖昧な色味で、まだら色なのがまたこれを年期ものであるようにに見せている。雫型のペンダントトップに至っては、傷がすこしついているようで、独特の使用感がそこにあった。
「これが君とこの世界を繋ぐ鍵になる」
博士曰く、このチョーカーはとても重要なものらしい。デュエルによって生み出された人間の感情、心拍数、肉体の電気信号を感じ取り、それを特別なエナジーとして変換、蓄積を行うのが、このペンダントトップについている宝石だと言う。数式がどうのこうの、一定の法則がなんだかんだ、変換のメカニズムがあれのそれやと、博士はまるで歌でも歌っているかのように難解な専門用語を紡ぐもんだから、俺は何かのオペラかミュージカルかを見ている気分で、熱心に博士が説明する内容を左から右へと通過させるのだった。この説明は、同行してくれた通訳の人がお茶をこの部屋に運んできたことで終わり、ようやく話が少し進むこととなる。
「とにかく、このチョーカーは大切なものだ。此方に帰るには一定量のエナジーが必要になる。デュエルで発生するエナジーをこのチョーカーに蓄積することで、異世界から自力で帰還できるのだ。これは絶対に無くしてはならんーーーここまではいいかね?」
「は、はい。なんとか」
「うむ。そうじゃな、わからないことは十代君にも聞きなさい。彼もよくわかっているはずだよ」
そして俺は、十代の話題が博士の口から出てくるとは思ってもいなくて、ひゅっと、目の前が暗くなるのを感じていた。博士は秘書に一言礼をつげて、お茶を飲んだ。俺にもマグに入ったお茶が渡される。日本茶の良い香りが、鼻孔をくすぐる。
なおも博士の説明は、続く。俺は、そうか、これから説明を受けるのは、いままでお互い喋ることのなかった”彼の仕事”にも関わる話なのだと、嫌というほど意識して、それから昨日の喧嘩のことをぼんやり思った。
「そうじゃ、デュエルの話もしておこう。デッキには出来るだけ強いモンスターを選んで入れなさい。あちらでは召喚の条件において、LPの条件に関してはすべて無視される。モンスター召喚時や、効果発動にLPが必要だったとしても、LPは減らないようでな」
仕事先の先輩も、異世界に行くのは簡単なことじゃないと言っていたし、まだ新人である俺も行く事は容易くはない。それは俺自身が一番わかっている。でも、博士の話を聞けば聞くほど、こんなに秩序だっている世界なら、俺でも大丈夫だと思う。現に十代だって、何度も行っている。ヨハンだって、三沢だって。だから、俺は目の前にチャンスを置かれて、手を伸ばさないほどバカじゃない。ペガサスさんも、俺の実力を大なり小なり評価してくれているのだ。期待に答えずして、いつ答えるのだ。なんであんなやつ、好きになってしまって、俺はそんな数年間彼女を作れないでいたのか。もんもんといらだちが募る。目の前で熱心に、ただでさえ白い黒板に、さらに赤いチョークでごりごりと図を書起しながら説明する博士が、ものすごく遠いところにいる錯覚を覚えた。
「ただ、君が相手のモンスターから攻撃を食らえば、それは本物のダメージとなって自分に襲いかかってくる。LPが1000ポイント削られたなら、その分だけ、肉体に傷ができる。痛みとなって全身を襲う。ゼロになればなるほど、体力気力共に削がれる。生半可な覚悟で攻撃を受けるでない。もし、攻撃を受け続け、そして0になった先には――」
一瞬の間があった。俺はそのとき、意識が急上昇する感覚に陥る。なにか、博士が重要な事を言う気がして、そっと身構えた。でも、その構えだけでは足りなかった。俺は次の言葉を聞いて、雷を打たれたような衝撃を味わう。
「死が待っておる」
死。
こんなにも簡単に紡がれる単語なのに、その言葉は重くのしかかる。フラッシュバックするのは、聞き流していたつもりの彼の言葉だった。
『お前が異世界に行くなんて、死にに行くようなものだ。…やめておけ』
一体、彼はこの言葉をどんな思いで口にしたのだろう。彼は月に何度か、異世界に行っている。2年以上一緒に仕事をしているとはいえ、彼の口から異世界の話が出ることはなかったし、俺もわざわざ聞くような無粋な真似はしなかった。だけと、それにしたって。彼の発言はあまりに無神経すぎると思った。だけど十代は、相手を軽んじるような言葉を簡単に口にする人でないのは、数年来の付き合いをしていれば嫌でもわかる。あの時、頭に血が上っていた自分を呪いたい。彼は、揶揄でそんなことを言ったのではなかったんだ。
死と隣り合わせの世界。安全が保証されている日本でしか生活したことのない俺が、生活様式も気候も、はては言語も異なるかもしれない、何が起こるかわからないそんな場所で、生きていける可能性はどの位あるんだろうか。秩序だった世界が、どれだけ自分を守っていたかを思い知らされる。
「しかし、これは逆に0にしなければ良い事じゃ。ルールに乗っ取ればサレンダーもできる。むしろどんどん降伏しなさい。命あっての物種じゃ。あちらじゃ、サレンダーは敗北を意味しない。逃げて良いとされておる。…これは一種の格闘技に似ているやもしれぬな。君が想う以上に、彼らは手慣れておるじゃろうから、十分気をつけなさい」
「…はい」
上の空で返事をする、武道に嗜みもなく、護身術さえ知らぬ自分をほんの少し呪った。この時の俺の表情は、あまりに変だったんだろう。博士にどうしたのかと尋ねられる。しまいには通訳の方にも体調を心配され、俺は慌てて弁明した。
「顔色が優れないみたいです。一度お休みになった方が…」
「大丈夫です!少し、難しい話を聞いたから、混乱しているだけで」
「…そうですか」
必死だった。こんな年になって喧嘩してうじうじ悩んでいますなど、正直に言う場面ではない。今は仕事なのだ。博士も、通訳の方も、仕事中で。俺だけ公私を混同して集中に事欠くのはみっともないし、いらぬ迷惑を駆ける必要はない。俺があまりに一生懸命だったからだろうか、通訳の方は一言、まだ納得の行かないような表情ではあったが、そのまま引いてくれた。でも、博士はその感情の機微に気づいたようだった。
「ふむ。…今日はもうこの辺りにしよう」
「博士、俺は大丈夫です」
「そんな表情では、私が上手く説明できない。もう休みなさい、大切な説明なら、出発の日にでもできるよ」
「っ、博士!」
「大丈夫だと言うなら、鏡を見てからにしなさい!」
博士が初めて、俺に向かって喝をいれるように感情を露にした。
「…今の君は、異世界に連れて行くには危険すぎる」
「…!」
「焦るのをやめなさい、くん。このままでは、君は大切なものを失ってしまうよ」
博士はそう言うと、通訳の方に何事かを告げる。それから、しどろもどろになって通訳の方が頭を下げるのを、俺は冷めた目で眺めるしかできなかった。博士は部屋を出て行った。西日が差し込むカーテンの向こうで、わいわいとにぎやかに列をなして歩く大学生の姿が見える。
結局、博士との話はここまでだった。
帰りの飛行機の中。自己嫌悪と疲労の狭間で揺れていたら、ふと、十代の、あの表情が蘇った。俺の異世界行きの話を切り出したときの、切羽詰まったような焦りと、怒りの表情。お前ばかり命を張って異世界に行っているのは、俺からしたらずるい以外の何でもないというのに。十代、お前は卑怯だよ。まるでそれじゃあ、昨日の喧嘩で君が言っていた言葉がすべて、俺が異世界に行って死ぬのが嫌だから行くなと、そう言っているのと同じに聞こえてしまうじゃないか。俺は最低な人間だから、都合の良いように解釈してしまったり、周囲に流されやすかったりするというのに。もしも、万が一にもお前がそれを知っていてやっているとしたら。俺はもう、この燻らせたまま凍らせたはずの感情を、どうしたらいいか分からなくなってしまう。