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仕事帰りの姿のまま、冷蔵庫の扉を開けた体制で硬直している十代を見たのは、俺が風呂から上がってきて飲み物を取ろうと近寄った時だった。緩慢な動作で十代が此方に視線を投げつけてくる。それが剣呑な雰囲気があることに気がついた俺は、立ち止まる。
「」
「ん?」
「ここにあったケーキを知らないか」
抑揚のないいつも通りの声色でそう尋ねてくる彼に、俺は十代はのマロングラッセを食べてしまって、それを買っておくのを忘れていたことに気がついた。ちょっとバツが悪い気分になりながら、俺は謝る。
「ああ、ごめん。ちょっとお客が来てたんだ」
そう言って彼の肩越しに腕を伸ばし、冷蔵庫の扉に備えられた炭酸飲料のペットボトルをひっつかみ、持ち上げようとする。しかしそれを俺が飲むことはできなかった。
「客?誰だ」
十代が俺の掴んでいるペットボトルを奪うように引っぱった。そんなこと微塵も予想していなかった俺の手から、ペットボトルはあっさり奪われる。ムッとして彼を睨むが、相手も同じように睨んでくる。一度こうなったら拉致があかないのは、数年来の付き合いで嫌というほどわかっていたから、俺は十代の問いに答える。
「…ペガサスさんだよ」
「なぜ?」
「仕事の話でちょっと話し込んでて。...ごめん、ケーキはシェフに頼むから、ちょっと待っててくれ、」
手のひらをつきだしても十代は手放す気配も、渡してこようともしない。俺はペットボトルも諦めて、柱の傍に備えてある子機を手にとった。彼の食べたがっていたマロングラッセはまったく同じとまではいかないが、一流のシェフがいるのだから、きっとより美味しいものを準備してくれるだろう。あるいはコンビニまで行って買ってきてもらってもいい。そう思って子機の内線ダイヤルを回そうとしたら、また十代はその子機すら掴んで、元あった場所に戻してしまうのだった。
「」
咎めるような声が、鋭く俺の名前を呼ぶ。珍しいこともあるものだと、俺は少し拍子抜けしてしまった。そんなに大事なマロングラッセだったのだろうか?
「本当に悪かったよ。そんなに怒らないでくれ…あれコンビニのだろ、だから、」
「そうじゃない」
いや、でもパッケージを覚えている限りでは、あれは別に限定品の類いではなかった。そうだとしたらなぜ、彼はここまで怒っているのだろう。
開きっぱなしの冷蔵庫が、ピーという悲鳴をあげる。庫内の温度が下がってしまうのはもったいない。閉めるついでに飲み物を取ろうとしたのだが、冷蔵庫の扉には手がかからず宙をつかんだ。
「話を聞け」
十代が俺の手をつかんだ。その手とは逆に持っているペットボトルを扉のポケットにしまうと、片手で乱雑に扉を閉めた。バタン、という音が静かなキッチンに響く。
「…なんだよ」
こちらの言い分を聞き入れもしない彼の理不尽な態度に、さすがの俺も怒りの感情を抑えきれなかった。十代の手を振りほどいて喧嘩腰に問えば、彼は声の音量を落としてつぶやくように問いを返される。
「何を言われた」
睨み合うように向かい合って立っている彼の眉間に、きゅっと皺が寄る。それが声と合間って余計不機嫌さを醸し出す。俺もそんな顔されて温厚な態度はとれない。苛々するのを落ち着かせようと、頭を掻きながら飲み物を諦め、十代から離れてソファに向かう。
「異世界行の仕事。遊城もよく知ってるだろ」
「何だと?!」
窓際の1人掛けソファにどっかりと座りながら簡単に話を始めようとすると、十代は突然大声を出した。あんまり煩いわけではないが、話を折られた気分になって俺が思わずしかめ面になったのも無理はない。
「お前、それ請けたのか」
「…そうだけど」
十代は何事かを言葉にしかけたものの、何を言うでもなく口を閉ざす。それと同時にメールの着信を知らせるバイブがガラス製のテーブルを揺する、クセのある独特音がする。俺はその音に、携帯が机の上で踊っているのを拾う。メールを確認しようとすると、冷蔵庫の前から、ソファのあるこちらに無言で歩いてきていた彼が、俺の手にする携帯を奪った。
「ちょっ、なにすんだよ」
慌てて奪い返そうと立ち上がるが、十代はそれを許すわけがなかった。俺よりも力があるせいで、力負けしてしまう。それどころか俺を抑えながら勝手に携帯を弄り出して、耳に当てる。一言の断りもなくて、怒りに駆られて十代の肩を叩く。それの拍子に緩んだ手から俺の携帯が床に投げ出された。白く光る画面が電話をかけていることを告げている。画面に表示されているのは、ペガサス会長の緊急時に使う直通の電話番号だった。
「なんなんだよ、おい」
持ち主である俺の手に戻ってきた携帯は、まだ電話をかけているが相手には繋がっていない。ボタンを押してコールの音を止める。
「その話は取りやめにしろ」
「はぁ?」
「やめろと言ったんだ」
「…冗談も大概にしろよ」
「冗談は嫌いだ。この案件は俺が請ける」
「おい…ふざけんなよ、なに勝手に決めてんだ」
「お前には任せられない。あいつもあいつだ。なぜこんな依頼をお前なんかに…」
俺の言葉を聞いていないのか、最後は独り言のようなものをブツブツ呟くと、十代は一方的に言葉を切った。彼は携帯を取ろうといつも充電器が置いてあるテレビの横にテーブルを横切って行こうとする。俺は、十代よりも早く相手の赤い携帯を奪って電源を切り、向かいのソファに投げ捨てた。十代が口を開く前に、押し込めるように音を吐き出した。
「…俺が、どんな思いでこの仕事を引き受けたか知らないくせに、偉そうな口を叩くな!」
込み上げる激情は怒りに満ちていた。今まで上手く隠しながら付き合ってきたはずの本音が、喉で堰き止められずに溢れてくる。
無意識のうち怒鳴るように語尾を強めていたせいで、十代も呼応するように言い返してくる。
「お前が異世界の何を知ってるって言うんだ!」
「あぁ、知るかよ!話されたことないからな!」
「当たり前だ!おいそれと話せるわけがない!」
「んなのわかってる!」
「だったら!」
「アカデミアの事件の時からそうだ!俺はいつもいつも、いっつも、後から全部知らされるんだ!俺だけ知らされてない!いっつもお前はそうだよ!肝心な事ばかり俺に話さないで、っもうウンザリなんだよ!」
仕事を一緒にするようになってから十代は、よく出来た男に成長したものだと思っていた。友人であることに鼻が高い気分であったし、ペガサス会長の計らいで仲の良い俺と十代が同じ部屋になった時なんかは、素直に嬉しかった。アカデミアの3年の時から雰囲気が変わってしまった十代と接していくうち、コーヒーを飲まないだとか、私服が案外センスがないとか、そういう意外な一面を垣間見れたりしたのも事実だ。それに十代は、他の仕事仲間からすると一番の出世頭らしく、結構な頻度で話題に上がるものだった。仕事の内容は全然違うものだと分かってはいたけれど、それでも十代と比較されることに少なからずとも劣等感を抱いていたのも事実だった。アカデミアを卒業してたった2年しか経っていないのに、十代と俺の間に埋まらない差が今あった。初めのうちは十代に追いつこうと必死になったけれど、もがけばもがくほど溺れるように、開いていく差に悔しさを覚えるようになった。それでも、出来るだけ十代に追いつきたい。もしも可能なら、十代と同じ仕事がしたい。そう思っていた。だから、ペガサス会長からオファーがきて、話を聞いた時には自分のこれまでの努力が報われた気がして、嬉しくてたまらなかったのだ。それを、それをコンプレックスを感じていた相手に言われてしまって、もうこれ以上自分の中で負の感情を抑え付ける術が分からなかった。
「お前ばっかり先に行ってるのは嫌なのに!…お前にとって俺は、そんな程度の存在なのかよ!」
それから俺は、口を閉ざした。某然とこちらを見る十代に余計苛立ちを覚える。まるで今言った俺の言葉が信じられないとでも言うようだった。信じられないのはこっちだと声を大にして言ってやりたかった。散々喧嘩してきて散々仲直りしてきたけれど、今回ばかりは俺は自分を曲げたくなかった。初めてだったのだ。この時自分の秘めた恋心の一部に似た、彼への思いを面と向かって口にすることは、これまでなかったのだ。気の知れた友人だったからそういうのを言うのも照れくさいということもあったけれど、友人だからこそ、親友であると思っているからこそ、この劣等感は話せなかった。
「俺は、そういうつもりで言ったんじゃない」
「ああそうかよ…、お前がそうやって話さないつもりなら、もう俺の事に口出しするな」
「…、」
「もういい、この話は終わりだ」
宥めようとする十代の思惑が癪に障って、俺は突き放すように十代から顔を背け、冷蔵庫に向かって歩き出す。乱暴に引っ張って戸をあけ、先ほど十代のせいで飲めなかった炭酸飲料のペットボトルを手に自室へ戻ろうと廊下に足を下ろす。
「お前が異世界に行くなど、死ににいくようなものだ。…やめておけ」
その時十代が俺に呟いた一言は、無視した。とにかく今は、この男の顔を見たくなかった。これ以上彼と顔を突き合わせていたら、泣き出してしまいそうだった。この親友という関係に甘んじたのは自分なのに、それに不満を覚えていたのは誰でもない自分で、そしてその関係を悪化させるように啖呵を切ってしまったのも、紛れも無い自分だった。