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十代が倒れた。という一報が入ったのは、俺が仕事のない、オフの日の昼下がりの頃だった。仕事中に酷い高熱を出してそのまま意識を失ったらしく、一時病院に運ぶか運ばないかで一同騒然となったという。同僚に支えられながら、家に帰ってきた。案の定というかなんというか、十代は昨日の雨に打たれて体を冷やし、風邪をひいたようだった。慌てて仕事先に連絡をいれて、明日の有給をもらった。しかし当の本人はどうも風邪のひき始めだったようで、その次の日にはけろっとした顔で、俺よりも早く起き仏頂面でモーニングをリビングで食べていた。万全を期したが、まさか一日もせずに治るなんて。久しぶりに風邪なんてひいたもんだから、もしかしたら長引くかもと柄になく焦ったと言うのに。少し憎たらしくなって腹に一発入れてやったのはご愛敬で、それを軽く避けられたのも、いつも通りだった。
雨が降り出してから3日目の、今日。久し振りに2日連続の休みの日だった。いまだ激しく降り続いている雨は、やむ気配がない。バケツをひっくり返したような雨とはよく言ったものだが、それが相応しい状況に出会うことになろうとは夢にも思っていなかった。防音されている部屋ではあったが、それでも雨の音が聞こえる。時々雨の音が止む時もあるが、それは僅か数時間程度のものであって、晴れ間がのぞく事もない。暫く経てば、雲で鬱蒼とした空から、雨。しとしと、ざあざあ。地面を乾かす暇も与えないくらいに降りしきる。
俺は雨が嫌いだ。むしろ雨の日自体が嫌いだ。理由は諸処ある。雨だからと備えて傘を持ち歩くのが煩わしい。そうといってカッパを着ても、濡れる。濡れれば風邪をひく。風邪は幼少の頃からの、天敵だった。だから俺は雨の日は家に籠もるに限ると決めている。まあしかし、ここまで嫌いじゃなかった。雨の音は家の中から見ている分には心地よい雑音であった。にもかからわず、俺が"雨の日"を嫌いになった、一番の理由があるのだが――まあ、本当に酒のツマミにもならないような体験談だから、ここでは割愛しよう。
それはそうと、今十代は居ない。十代は雨の日になると、必ず家を空ける。彼はいつも、休みの日で雨が降っている場合は特に、家に居たがらない。理由なんて知らない。問う必要性を感じられなかった。誰にだって知られたくないことの一つや二つ、…十代はそういうのが多いかもしれないが、人間ならそういうものを持っていて当然だろう。それがもし聞かれたくない事だったりしたら、彼に不快な思いをさせてしまうかもしれない。俺はそれが嫌だったから一度として尋ねた事もなければ、後をつけるような真似もしなかった。
十代の風邪のいざこざ騒動で休日になった今日、俺は家に居る。ぼんやりとソファーに腰かけ、ベランダ越しに外の風景を眺めていた。雨の音は、降り続けて三日目だというのに相変わらず激しい。しかしふとそこに鳴り響いたのは、ピンポンという間の抜けたチャイムの音。俺は重たい腰を上げて、キッチンの横につけられているドアスコープのディスプレイを見る。小さなハガキほどのサイズの液晶に映されていたのは、よく見知った顔だった。
『ハーイ、ボーイ』
目に刺さるような輝きを放つプラチナブロンドの髪を器用に片手でなびかせ、俺の名前を呼んだのはペガサス=J=クロフォード。インダストイリュージョン社の社長であり、俺と十代の雇い主でもある。学生時代のある一件で彼は十代を甚く気にいったようで、それから俺たちの仕事も彼が進んで準備してくれたようなものだ。なにかと手を焼いてくれる彼は、暇があると良くこの家に来る。珍しいお土産などを持ってくることもあって、それはそれで嬉しいのだが、アポなしの来訪に俺は大慌てだった。
「ペガサスさん!」
『遊びに来ました。入っても?』
「もちろんです!…今、玄関を開けますから、入ってきてください」
二つ返事で玄関の鍵をあけ、入ってくるように勧める。液晶の電源を落として、俺はキッチンのシンク上に取り付けられた収納棚をバタバタと開け、新品の袋に入れられたインスタントコーヒーを取り出してまた仕舞うなんていう変なことをした後に、この部屋で一番良質なコップと紅茶缶、普段滅多に使わないフィルターなどを、棚やら引き出しやらから、引っかきまわすように引っ張りだした。先程まで綺麗に片づけられていたキッチンが全て、あっという間にごちゃごちゃになった。でもそんなことに構っている暇はなかった。俺は未開封の紅茶缶を開けようと手をかける。力み過ぎて蓋が飛んでいく。カン、良い音がして、コロコロと、キッチンの向こう側、大理石の廊下の床の上、それから綺麗に磨かれた高級な風合いの革靴に当たりようやく蓋が止まった。そしてそれを、形の良く骨ばった大きな手の、上品で豪勢な指輪の嵌められた長い指が拾い上げた。俺ははっとした。
「そんなに急がなくても紅茶の缶も私も逃げませんよ。…おや、ずいぶん良質なダージリンですね、甘く深みのある香りだ」
ノリのきいた緋色のスーツを着込み、廊下に立つのは先程まで玄関に居たはずのペガサス会長。彼はくすくすと笑い紅茶の蓋を器用に片手で弄りながら、靴を脱ぎ、出されていたスリッパに履き替えた。此方に来る途中、缶の蓋についていた匂いを嗅いだだけで俺が淹れようとしていた茶葉の名前を当てるという芸当をやってのけるこの男は、正真正銘のお金持ちである。
俺が驚きのあまり固まっていると、ペガサス会長はキッチンのなかに堂々と入ってきて、トレイ、コップ、ソーサラー、それから角砂糖のポット、ティースプーン等など、手際よく準備していき、手慣れた様子で紅茶を入れ始めた。しかも俺の分まで。迷いのない手つきからして、彼は毎日紅茶を飲んでいるんだろう。来客である彼に気のきいた紅茶一つ出せないことに俺はがっくりと肩を落とした。しかしペガサス会長の嬉しそうな横顔を見ていたら、なんだか俺がやるよりも彼が淹れたほうがおいしいのでは、と図々しい考えまで浮かんできた。俺はそれならいっそお茶菓子の準備でもしようと、冷蔵庫に入っていた十代のマロングラッセを引っ張りだすことにした。十代には心の中で手を合わせておくことにした。後でまた買って来てやろうと思う。
「先日は、突然二人して休むと聞いて驚きました」
「すみません、突然」
「十代ボーイが風邪をひいたのでしょう。知っています」
「ああ…管理がなってないばっかりに…本当に申し訳ない限りです」
「そんな、気にしないでください。体は資本です。それは十代ボーイもよく分かっているはずです」
互いに手を動かしながら、とりとめもない近況の話題で会話が惰性的に続けられる。ペガサス会長は本当に寛容な方だと思う。普通だったら仕事に来ない人は切り捨てられるのが当たり前だろうに、この人はそう言う事はしない。むしろなぜ休んだのかという原因の追及の方に力を注いで、出来る限りその原因を排除、あるいは遠ざけたりすることを選び実行してくれる。俺も十代も大変救われている。しかし彼は、お偉い方との会食に立ちあったり社員達と新カードの開発で各地を飛び回っていて、多忙なはず。それなのにこうしてわざわざ俺達の所に来た理由はなぜだろう。尊敬する彼が俺の元を訪ねてくれる事はこの上なく光栄だとは思う。だが――なぜか首の後ろがさわさわして落ち着かなかった。
ペガサス会長が淹れてくれた紅茶とマロングラッセをダイニングにセットする。彼に長ソファーを勧めてから、俺はその左隣にある背もたれのないボックスソファーに腰かけた。断りを入れて紅茶を一口啜る。良質なダージリンというのは本当だった。安っぽい苦みと甘味ではなく、もっと奥深い味と香りが鼻を抜ける。ふっと顔が綻ぶ。ペガサス会長も微笑んでいた。
それからケーキを食べて、紅茶を飲んで、しばらく他愛のない話をした。ややあって会話が途切れた。さあさあ、細切れの雨音が室内を支配する。俺は先程から気になっていた事を問うのは今だと、俺はソーサラーに空になったカップを置きがてら口を開いた。
「あの、ペガサスさん。今日は何しに来たんですか?遊城に用事ですか?」
「そうですね…それもあります」
「携帯なら繋がりますよ。呼び戻しましょうか」
「ノーノー。大丈夫です。むしろ、今日はそのために来たのではないのです」
彼は横に首を振った。俺はとうとう口を閉じた方が良いなと思って、ペガサス会長の言葉を待った。ふと彼の目が自分を食い入るように見つめていることに気が付いた。一度意識すると、それはより顕著に頭角を現して、俺の脳に情報を一つ刻みつける。彼は暫く俺の目を見ていた、顔だったかもしれないけれど、なんだか彼は俺の目を縫いつけたように覗いてくるようで、俺はまともに瞬きも出来ず、奇妙な数分――実際は数秒だったかもしれないが、彼と見つめあっていた。逸らす事などできなかった。そして同時に俺という人間の中身を透かし見られているようで、背筋に冷たいものが伝うのを人ごとのように感じていた。
重たい空気が淀んだように沈黙を作りだす。俺の心臓の音が煩い。雨が先ほどより小雨になったのか、極度の緊張で周囲の音も拾えなくなったのか、俺は雨の音が嫌に遠く小さく聞こえるのに気が付いた瞬間、ペガサス会長が動いたのを見た。緩慢な動作で瞬きをした後、彼が息を吸うのを見た。そして波紋のように吐き出された声が空気に波紋を生む。
「」
澄んだ声が俺のフルネームを呼び、俺の鼓膜を揺らす。続きを促すように、俺ははい、と返事をした。無意識に膝元で組んだ両手に、わずかに力が入る。プラチナブロンドの隙間から、金色が見え隠れする。
「貴方に頼みたいことがあります。…いえ、貴方だからこそ、お願いしたいのです」
ペガサス会長はゆっくりと、言葉を選ぶように慎重に一言一言を紡いでいく。視線を彷徨わせることなく、まっすぐとこちらを見つめてくるその視線に、俺は自然と前のめりになっていた姿勢を正し、跳ねる心臓を落ち着けるように深呼吸を浅く行った。彼曰く、俺にしか頼めないという話だから、俺はこころなしか気分が高揚するのを感じた。尊敬の対象とする人から信頼されていることが垣間見えたときに、喜ばない人はいないと思う。
「異世界での仕事です。貴方にとってもチャンスだと私は考えています。どうでしょうか」
目の前の彼はそう言うと、至極真面目な顔で俺から視線を逸らさない。イエスという肯定の一言を待っている。異世界での仕事、これは今まで、十代達の仕事だった。カードの精霊を見れたり、なにか特別な力を持つ人だけが許される、特別な仕事。それがこの、異世界での仕事だった。めったなことがない限り、この仕事は回ってこない。むしろ回せないのではないかと思う。デュエルアカデミアでもあったように、危険が起こらないとは限らない異世界。しかしそこに俺がペガサス会長直々で抜擢されたということは、俺の力が少しでも認められたと考えていいんじゃないか。俺は嬉しさのあまり顔がおかしなことになっていやしないかと、一度自身を叱咤してから口を開いた。そこに迷いなんてなかった。
「話を、聞かせてください」
夕焼けの中、山々に身を落とす太陽の光がうっすらと、白いソーサラーとカップを照らしあげる。雨の音はいつの間にか、止んでいた。