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あれは確かに恋だった 3


 仕事を終えた遅い時間帯の帰り道。夜中にも関わらず突如降り出した土砂降りの雨に打たれて、俺達は駐車場に止めてあった車に大慌てで乗り込んだ。

「(靴の中までびしょ濡れだ)」

 水を吸ったスーツが、纏わりついてくる。車の暖房をつけたものの、それが直ぐに改善されるわけもない。早く帰って風呂に入って、着替えたほうがいい。風邪をひいては元も子もない。シートベルトを締める気にもなれなくて、俺は十代が助手席にいるのを確認してすぐ、車を発進させた。アクセルを踏み込むたびに、履いている靴下がぐじゅぐじゅと水を出したり、吸ったりを繰り返す。それが酷く不愉快だったが、それでも俺は車を走らせる。折角二日前に洗車しにいったのに。心の中で文句を垂れ流した所で状況が変わるはずもないのはわかっていたが、それでも頭の中でとても口にできないような単語を並べずにはいられなかった。

 駐車場から出て暫く進んだ先に現れた信号は、黄色から赤に変わろうとしていた。俺はゆっくりとブレーキに左足を押しこんでいく。あまりにも冷たい水が溜まっている靴底に背筋が凍りそうだ。雨で路面が滑りやすくなっているのを感じる。何時もより気持ち遅く、車体は完全に停車した。少し息を吐く。ワイパーが動いて、フロントガラスに溜まった水滴を一掃した。目の前の視界が、僅かばかりクリアになる。

 ふと隣を見れば、十代が助手席に深く座りこんで、腕をさすっている。そのまま丸まってしまいそうな体制でいる彼の瞳は、いつもの栗色ではない。蜂蜜を日に透かしたようなべっ甲飴が、薄く開かれている目に埋め込まれている。俺は息を飲んだ。

「十代、」

 無意識のうち、俺は彼の名前を呼んだ。実は彼の名前を呼ぶのはずいぶん久しぶりだったし、寒さもあって酷く震えた声だったが、俺はその時自分でなんて言ったかよくわからないでいた。なぜだろう、彼が何処か遠くに行ってしまったように感じて、俺は酷く狼狽した。

「ん、」

 小さく唸った十代が、一度緩慢な動作で瞬きをした。そして瞳が俺の方を向いた時、目の色はぼんやりと濁る、見慣れた栗色に戻っていた。彼の表情が変わる。何が違うと言われれば説明できないけれど、でも彼は先程、ほんの一瞬だけ違う人のようだった。

「…どうした」

 いつもの声で呼びかけてくる低音は、耳に慣れているものであった。俺は何だか見てはいけないものを見てしまった気がした。十代の顔を直視できなくて、俺は真っ直ぐ前を向いて、チカチカと点灯する横断歩道用の信号に視線を移した。

「いや、」

 俺の視力は良い方だし、幻覚を見るほど俺の精神は参っていない。光の角度で十代の目は色が変わったように見えたのだろうか。そんなはず―――いや、だったら、あれはいったい何なんだ?

 車内に鎮座し、俺にのしかかってくるような無言を、強い雨の音が相殺する。信号が青に変わり、エンジンを吹かせば、さらに沢山の雑音に沈黙が掻き消えていった。暖房が効き始めた車内は、俺の右手の震えを止めたが、靴の中に溜まったままの水分は相変わらず不快なままだった。車が早く走れば走るほど、フロントガラスを叩きつける雨の音は強くなる。バックミラー越しに彼を幾度か盗み見たが、彼の瞳はいつの間にか閉じられていた。十代は何も、喋らない。


 ×××

 車を車庫に止めると、十代は俺より早く車を降りた。俺は自然と十代の後ろを追いかけるようになって、そしてそのまま玄関へ向かう。水滴が二つ分の足跡を、乾いたコンクリートの上に作る。大理石の廊下についた時には、足跡は少しだけ掠れていた。

 玄関にあたる場所から、俺の部屋と十代の部屋の扉同士が向かい合う大理石の廊下を通り過ぎ、一番奥まった所にあるリビングにつく。白い大理石から、一段上にある木目調のフローリングへ。床暖房が付いているそのフローリングは見た目も相まって温かく感じられる。靴を脱いで、靴下も脱いで、裸足でその上に足を下ろす。やっぱり温かい。やはり設置を依頼したのは正解だったと、心の底から床暖房に感謝した。

 俺は床に座りこんで靴下を脱ぐ十代を視界に入れた。彼にもタオルが必要なのは明白だったので、先に脱ぎ終えていた俺は、今居るダイニングから、ソファーのあるリビングを超え、バルコニーの隣にある洗面所へと足を運ぶ。すりガラスの扉に付けられている取っ手は純銀製だ。俺達を雇った人の趣味がこういう小さい所に良く反映されていると思う。水浸しの靴下を右手に揃えてから、精巧な作りのそれに開いた左手を添え、肩を使ってその扉を開く。ヒノキでできているこの洗面所とバスルーム――これは俺と十代が日本人だからということで特注してもらったそうなのだが、そんなこの場所は、男2人が住んでいるとは思えないほど綺麗に保たれている。これはハウスキーパーが居るからだ、…と思う。実際見たという訳ではないのだが、俺達がどんなに汚い状態で放置したとしても、仕事から帰ってくるとモデルルームのように元通りになっている。多分これも、雇った人の配慮という名の常識だった。金持ちは考えていることが違うと、この部屋に来て1ヵ月ほどはそう思っていたが、今となってはこれが当たり前になりつつある。慣れって恐ろしい。

 一度も使ったことのない最新の洗濯機の横にある、ドラム状のランドリーボックスに靴下を投げ入れた。ついでに水を吸い込んでしまったジャケットも入れておく。両手が自由になったところで、壁の収納に綺麗に畳まれた、触り心地の良いベージュ色のバスタオルを2つひっつかむ。閉じかけていたすりガラスの扉の縁に手をかけて、俺が歩いて通れるぐらいに開き、先程歩いてきた所を同じように通って、ダイニングに戻った。その途中、俺は左手だけでバスタオルを広げ、肩に引っかける。

 30畳ほどある無駄に広いダイニング、その中央に、床暖房の上であぐらをかき、重たそうな前髪から滴り落ちる水滴を見つめ、俯いて座りこむ十代。俺は彼に向かって、バスタオルの一枚を投げつけた。――命中。頭にあたったタオルはボテという音をたてて、フローリングに落ちた。俺は酷く驚いた。いつもの十代だったら、抜群の反射神経で難なくキャッチしていただろう。なのに、彼は今、ようやくタオルの存在に気が付いて、緩やかな動作で左手を伸ばしている。

「(…らしくない)」

 疑問を残しつつも、彼がガシガシと髪を拭き始めたのを見て、俺も首にかけたままのタオルで髪をひとなでした。肌に触れたバスタオルの表面はふわふわしていて気持ちが良い。今迄使っていたゴワゴワのタオルとは比べ物にならないほど高級だ。一通り水分を拭きとって、俺はネクタイを緩め、その場でワイシャツも脱いでしまう。襟首も袖口も、やっぱり濡れていた。黒い半袖Tシャツのような下着に水の染みが見えるほど、濡れている。俺は下着も脱いでしまうことにした。多少は温かい室内ではあるが、季節は一応冬だ。やはり鳥肌が立つ。バスタオルを羽織るが、水分を吸い込む仕事を終えたそれは、やはり湿っぽく冷たい。着替えを取りにいくために、部屋に戻ろうと思った。

 大理石の廊下へ体をむけて、そこで俺は、バスタオルを髪の上に乗せたまま、濡れそぼったスーツを脱ごうともしないで座っている十代を、目にする。俺がこんなに動き回っているというのに、先程から彼は脱ぎ暖をとるための行動をしていない。家に帰って来てから5分、いや10分以上経っただろうか。彼はずいぶん長い間、その格好のままだ。いくらここが床暖房や空調が付いているからといって、濡れていていいはずがない。

「お前、そんな格好でいると風邪ひくぞ」
「………ああ」

 俺の呼びかけに対して、たっぷりと間を置いて彼はようやく立ち上がった。ぺたぺたという足音を立てて、彼はソファーのあるリビングのほうへ歩いて行った。水で濡れている靴は履く気にならなかったので、段差の脇に備え付けてあるスリッパを大理石の廊下に投げるように置き、そこに足を引っ掛け、気持ち早足で自分の部屋へと歩いて行った。大理石の廊下は、暖房が効いていないから寒く感じる。

 自分の部屋に戻ると、部屋は綺麗になっていた。朝あれだけ寝坊して、バタバタといろいろ投げ出した状態で出てきたというのに。脱ぎ散らかしていたジャージはきっちり畳まれているし、開けっ放しだったクローゼットも閉められている。整えもしなかったベッドはメイキングされており、全て昨日の、俺が寝る前の部屋とどこも変わりなかった。まあ、これも普段通りなのだが。やっぱり慣れていいもんじゃないと思う。この部屋に誰か入っているのかと思うと、なんだか落ち着かない。俺は高校教育を終えるまでは一般家庭で育ってきたし、そのような常識というものが体に染みついているから、変だなあと思ってしまう。いや、綺麗になっているのは素直に嬉しいし、見られたり取られて困るようなものが隠されているわけでもないから、別に構わないんだけれど。

 質の良い木材で作られたクローゼットに手を伸ばし、中にある引き出しを引っ張って中を見る。黒の薄い肌着を身につけ、グレーのシンプルなワイシャツを上に羽織れば、さっきまで立っていた鳥肌もいくらかマシになった。ついでだからズボンも取り換えてしまおうと、ベルトを外して脱ぐ。1週間ほど前にクリーニングに出したばかりだったのに。おそらく雇い主に頼めばまた出してくれるだろう。申し訳ないとは思うが、彼ならふたつ返事で承諾してくれるのが頭に浮かんで、俺はあの人ならやりかねないと、小さくため息をついた。もはや此処まで来ると、文化の違いだと思わざるを得ないものがあった。

 着替え終えた俺はダイニングに戻り、リビングと対面式になっているオープンなキッチンに足を運ぶ。コーヒーメーカーに備え付けられているポットには、いつの間にか温かいコーヒーが準備されている。十代が準備したのだろう。俺は上段の戸棚からマグカップを取り出す。お気に入りというわけでもないが、いつも使うのはこの取っ手だけが白い、黒を基調としたデザインのマグだ。他にもお洒落で、デザイン性のあるものもあるのだが、俺の中ではこれが自分の最たるお気に入りの一つだ。

 ブラックのコーヒーが注がれたそのマグを持ち、ソファーに座るためにリビングへと移る。下に敷かれた大きい正方形の絨毯は、トルコで雇い主が直々に買ってきてくれたものらしい。もっと正確に言うと特注した、とも言えるかもしれない。俺達が彼の元に就くことになったそのお祝いとして、この部屋に宛がわれた際にプレゼントされたものだ。美しい刺繍が施されたその絨毯は、これといった審美眼を持ち合わせていない俺からしても、ゼロの桁が多い商品であろうことは想像に容易い。そしてその上に、これまた高級な本皮でできている茶色い3人掛けのソファーと、1人掛けの小ぶりなソファーが、シンプルな木のローテーブルを中央にして、L字型になるように綺麗に配置されている。その1人掛けソファーに、埋もれるように座る十代が居た。俺はぎょっとして、手に持っていたコーヒーを零しそうになる。まあ、俺が歩いてきた方からは十代の姿は無かったので、彼がそこに居たという事にも驚いたが、それよりもなによりも、彼がまだ、今日の朝家を出た時と同じ服装のままでいることのほうが驚きだった。

 マグを一度机の上に置いて、俺は十代から見て右側のソファーに腰かけた。十代は俺が手渡したバスタオルをブランケットか何かのように体に被せて、腕を組み、目を閉じて俯いていた。これだけ聞くと寝ているようにもみえるが、俺は彼の寝相の悪さを嫌という程知っていたから、彼がもしこんなところで寝ていたとしても、まともにソファーに座っていられる訳がないと結論付けられる。彼は起きている。じっと視線を送っても、コーヒーを飲んでマグをわざとらしく音を立てて置いても、狸寝入りのままの彼。俺は大げさにため息を吐いて、彼に声をかけることにした。

「なんで着替えてないんだよ」
「…ああ」

 十代は動かない。返事をする時に息を大きく吸い込んだので、体に掛けてあったバスタオルが少し動いたが、別に身じろいだというわけではなかった。彼は目を開ける事さえしなかった。その様子が俺には気だるそうに見えた。

「風邪ひきたいのか?」

 俺はあまり考える事もなく、いつもの調子で、笑いを声色に乗せた。ふっと笑った時に視界に入るコーヒーの湯気。俺は冷めないうちに飲もうと、彼から視線を外した。マグに手を伸ばし、指先にじんわりと感じる温かさに満足しながら、口へ運ぶ。ブラックのコーヒーはやっぱりいい。甘くなくて、苦いこの感じが最高だ。取っ手を引っかけてある右手に左手を添え、マグを握りしめる。それから膝を組み、癖のせいで上になる左膝でマグを支えて、リラックスした状態になる。俺の右側にある木製のバルコニーの先、南西の空は黒々とした暗雲が立ち込めている。防音のお陰で外の音はある程度遮断されているが、それでも換気扇の音とバルコニーを打ちつける雨音だけは、俺の耳が聞き零すことはできなかった。

「…そうかもな」

 そうやって外をぼんやり眺めている際に、彼は力なく自嘲した。俺は一瞬、全ての音が消えたように頭が真白になって、ぞっとした。純粋な驚きと経験のない異常事態に対する俺の体の反応と、煩く脈打つ心臓を諫めようと、握ったままのマグを軽く体の方に寄せた。心なしか湯気の薄くなったコーヒーが、刻々とした黒を湛えている。思い切って彼を視界に収めて、俺はまた思考を停止させる。

 何と言ったらいいだろう。今の彼を表現しきれるほど適切な言葉だとは思えないが、言うなら、彼は疲れて、衰弱しているようだった。十代は仕事中、俺にそんな素振り見せなかった。疲れたとか、しんどいとか、…風邪っぽいだとか。とにかく、彼は"らしく"なかった。一度そう思えば、あとは違和感だらけ。

 このコーヒーだって、十代が淹れたものだとばかり思っていたが、思い出したのは彼が甘党だということ。普段ブラック用の、俺のお気に入りである豆を、彼は使わない。つまりこのコーヒーは、たぶん、俺の憶測だと、ハウスキーパーさんが淹れておいてくれたもの。俺から見て左手の、1人掛けソファーを陣取る十代をまじまじと見れば、猛禽類のような刺々しい雰囲気はなりを潜めて、伏し目がちの目元は僅かに赤いのが分かる。眉間に寄せられた皺は普段より険しく、唇は色を失っているようにも見えてしまう。それは素人でもわかる、風邪の症状によく似ていた。

「…バカ言え」

 なのに、俺が散々頭で考えた挙句に言えたのは、そんな気の利かない一言だった。困ったように笑う十代の額にかぶさる前髪の先は、まだ濡れそぼっていた。ああ、もう少し頭が回ってくれればいいのに。俺は頭をガシガシと掻いて、大きくため息をついた。

「先に風呂入ってこい。あったまるから」
「…ああ」

 十代が立ち上がって、ソファーの背もたれに埋まった状態のような猫背のまま、ペタペタと足音を立てて洗面所に入って行った。

 俺は子供の頃、やけに風邪をひきやすかった。まあ、そうはいっても軽い風邪ばかりだったのだが、そのお陰で嫌というほど風邪に対する対応を弁えていた。単身赴任の父に、出張がちだった母。特に母に口を酸っぱくして言われたのは、「温かくしてご飯食べて、薬飲んで寝る」事。幼心に植え付けられたその方法は、間違っているわけじゃないし、実際俺もそうして風邪を治してきたので、十代に実行させることにした。

 確認はしていないが、多分浴槽にお湯ははってある。毎晩温かいお風呂を準備しなくても、既に整ってしまっているのだから。これで暖はとれる。次に食事だが、この家で取る食事といえば、いつも各自勝手にフロントコールでお願いしてしまう事に気が付いた。ホテルでもないのに、なぜかフロント直通の子機が、俺と十代それぞれ専用で、ある。元々自炊が好きでなく、他力本願の節がある俺からすれば願ったり叶ったりのこの電話。しかしこれまで頼んだ事のあるものと言えば、酒だのつまみだの、そんなもの。雇い主いわく、「フルコースだって頼める」らしい。そんなお墨付きをもらっているシェフが待ち構えているそうなのだが、残念なことに、仕事から帰って来れるのはいつも遅いし、出張があれば二三日、下手すれば1週間と帰ってこない、そんな俺達は、超がついても足りないんじゃないかと我ながら思うほど、多忙。だからそんなのを悠長に頼めるわけもない。ほとんど外食か簡単な栄養補助食品で済ませる俺にとって、風邪に効く食べ物といって咄嗟に思いつくものが無かった。俺はとりあえず、フロントに電話することにした。テーブルに置かれた、赤いテープの巻かれた子機を手に取り、ボタンを押す。若干冷たいそれを、耳にあてる。

『はい、こちらフロントサービスです』

 ワンコールで電話越しの相手は出た。ボーイさんだろうか。若い男らしい声だった。風邪に効く食べ物と伝えれば、やけに嬉しそうな声色になった。

『何かお好きなものはございますか?』

 そこで俺は言葉を詰まらせる。十代は何が好きだ?最近の彼の食事の内容を思い出そうとするが、こういう時に限ってなかなか出てこない。もしもし?男が困った声がする。俺は焦っておまかせで、といった。自分で言っておいて、なんだか見当違いの受け応えになってしまった気がする。俺の思いとは裏腹に、ボーイさんは快く了承の旨を述べる。

『出来上がり次第お部屋までお運びいたします。20分ほどお待ちください』

 ツーツー。俺は回線の切れた子機を所定の場所に戻しておくことにした。今さらだがこの子機は十代のものだ。まあ食べるのは十代だしいいのかもしれないが、俺が勝手に使ってしまったことに今少し後悔している。おまかせなんて言わなきゃよかったか。そもそも十代が食事する光景が目前に浮かんでこないことに、非常に困惑を覚えたのが原因だ。…最後に一緒に食べたのはいつだったろう。十代の食事風景を心に浮かべる。真っ先に浮かんできたのは、オンボロな食堂で、美味そうにエビフライに齧りついている十代の姿だった。俺は頭を抑え込むように抱えた。仕事の忙しさが相まって忘れかけていた、今朝の夢の内容が一気にフラッシュバックしてくる。十代と、幸せそうに、遊ぶ夢。なんて深層心理的な夢だろうか。

「お前はいいのか」

 ガチャという音と、意中の人の声がして、俺は少し体を強張らせた。そして自分がまた、思考を脱線させていたことに気が付く。ソファーに腰かけた体制のまま首と上体を捻れば、洗面所の扉から顔を覗かせる十代が見えた。俺は今日何度目になるか分からない硬直を、体験する。

「風呂は」

 復活できたのは彼の普段通りの声のお陰だった。若干聞き逃していた彼の問いの意図を、今一度咀嚼することができた。

「…ああ。…うん、後で」

 俺は片言になりながらも、何とか単語を繋いで、ままならない文章のまま相手に返した。一瞬眉をひそめたが、さっと彼は洗面所に引っ込み扉を閉めてしまったので、それ以降の表情や感情は分からなかった。俺は暫く呆けた表情のまま、ソファーで、彼が逃げ込んだ洗面所に繋がる唯一の扉を、透かし見るように眺めていた。

「(…金色、)」

 今日、二度見てしまった。あれは俺の見間違いなんかじゃない。場所が違うし、この場所は見慣れた場所なのだから、光の加減でも何でもない。つまり彼は、十代は目の色が変わるような何かをしている。それが何かなんて知らない。もしかしたら"仕事"の所為かもしれない。しかし、もしそうだとして、十代と"仕事"の内容が根本的に違う俺が、口出しできる事なのだろうか。もやもやした頭では、まっとうな思考ができるはずもない。

 それでもわかるのは、彼が俺に告げないことを、無理矢理聞き出すなんて言語道断ということ。十代は十代なりの思惑があって、こうして口を閉ざしているのだろう。だったら俺だってわざわざ聞く必要はない。それで彼との関係が今迄通り、保てるのなら俺はそれでいい。彼との今の関係は、友人であり、職場が同じだけの仕事仲間だ。想いを伝えることを恐れる俺が望んだ、自分に甘えを許した結果で、いわば最良の選択でもあった。今が幸福であるなどとは思わない。でも、だからといって無邪気に笑いあっていた過去に戻ろうとも思わない。

 形が違えども、幸せはいつも何処かに身を潜めているものだ。それが出てくるのが少なければ少ないほど、喜びというものは倍増すると思う。だからその僅かな幸せを、俺は大切にしたい――そのためなら、俺は自分だって殺す。

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