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俺は目を覚まし、ベッドから起き上がった。目の前の窓から差し込んでくる光が、俺の目覚めを促したらしかった。カーテンを閉めなかった所為で、俺のベッド全体に朝日が差し込んでくる。
「…なんだったんだ」
お気づきの方も居るかもしれないが、これは夢。そう、全部夢である。自身の若かりし頃の夢を見るなんて誰が予想しただろう。俺は深くため息をついた。ガシガシと頭をかきながら、大きく口を開きあくびをする。顎の骨がぼき、と音を立てた。これが地味に痛い。
ひんやりとした室内の温度は、日光によって少し和らいでいる。長袖Tシャツ一枚でも布団から出るのになんの支障もきたさない温度。今の季節は冬だが、俺の学生時代のオンボロ寮とは真逆のアパートは寒さを感じさせない。壁にかかった木製の壁時計が、ポッポーという、シンプルな内装の部屋に似合わない音を鳴り響かせる。そして俺は絶句した。針は6時を示していた。
「…」
そしてそれは、俺が寝坊したという事実を容赦なく付きつけてくるのだった。俺が若年性の痴呆症でなければ、俺は今日5時に起きているはずではなかったか。ベッドランプの設置されたテーブルの上、アラームを付けたはずの携帯電話に手を伸ばす。折りたたみ式のそれを開いたところ、待ち受けが映らなくて、充電切れであることがわかった。20を超えたいい年した大人になった俺が、こんなふうに寝坊するなんて思ってもいなかった。呆然とした顔のまま俺は携帯をテーブルに戻した。細く長く息を吐いて、寝ぐせが付いたままの頭を乱雑に掻きまわし、それから枕に顔を突っ伏す。こんな風に寝坊するのはいつ以来だろう。そういえば、高校生の時俺は朝が苦手だった。何時からだろう、朝、携帯のアラームの音だけで起きられるようになったのは。ぼんやりと思い出すのは、夢の中で笑いあっていた過去の自分と彼の顔。
「!」
バン。
この音でデジャヴを感じたのなら、それは間違っていない。俺なんか心臓が飛び出そうなほど驚いて、夢とあまりに似通っている一瞬の状況に、無意識に唾を飲み込んだぐらいだ。多分、いや確実に、俺は間抜けな顔をしている。部屋に入ってきた彼は俺のその顔を、寝ぼけ顔程度にしか認識していないに違いない。
上半身を起こしたまま硬直する俺を冷酷無比の表情で見てくる彼は、タイトな黒いズボンと対照的に真白なワイシャツに身を包んでいる。深いワインレッドのネクタイを緩く絞め、シンプルな黒いジャケットは前を開けてはおっている。顔立ちは愁眉端麗、髪型は栗色の猫っ毛で、若干前髪が重めだが、ワックスで整えてあるためふんわりと軽い印象を与える。傍目から見たらどこかのホストかと勘違いしてしまいそうな男が、俺の名前を呼び、起床を促す。
彼は十代。遊城十代。俺の同期であり、同時に現時点での仕事仲間でもある。仕事の内容っていうのは、まあ此処では割愛しよう。学生時代の十代はデュエルが強いだけの有名人だったから、モテではいなかった。いや、もしかしたら数少ないアカデミアの女子からはモテていたのかもしれないけど、俺はそんな色めきたった話を十代の口からも、噂からも聞いたことがなかった。それが今はどうだ、何処から見ても非の打ちようがないモデル顔負けの体型に、ボーイソプラノよりも少しトーンの低いアルトを併せ持っていて、整った顔に笑顔でも浮かべようものなら、落とせない女なんていないんじゃないのか。そう思ってしまう程、十代は良い男になっていた。
「起きてんなら早く支度しろよ。今日は忙しくなるって昨日言っただろ」
そんな男―――十代は、少しイラついた声色で、扉の枠に右手をかけ体を支えながら俺に催促してくる。高校生の時からは想像もつかない彼の見た目、声、表情、そして言葉遣い。夢でみた過去の彼はこんなに口が悪くなかったなあ。俺はぼんやりと目の前の彼と、昔の彼を無意識のうちに比較していた。過去のほうはなんて可愛げがあったのか、今がどれだけ可愛げの「か」の字もないことかと嘆き、そしてそれにもかかわらず過去の彼と目の前の彼が同一人物であるということに、やけに面白味を感じて、口元が緩むのを抑えきれないでいた。
「何だよその顔は」
言葉も発しないまま、寝ぼけのアホ顔から突如ニヤニヤしだした俺を見て、十代は嫌いなものを見るのと同じような視線をこちらに寄こす。不機嫌な声色。まるで当時の、機嫌の悪い俺の反応と一緒だ。さながら立場が逆転したとでも言うだろうか。
「…いや、別に、なんにも」
口元を手で軽く隠しながら、緩みっぱなしの表情筋を今一度引き締めるようにと意識する。部屋に足を踏み入れてこそいない十代だったが、存在は嫌という程感じる。すっ、と細められた彼の目が、言外に急かしている。その事に気が付いた俺はずりずりとベッドから足を下ろし、足裏に力を入れて立ち上がった。床がフローリングだから裸足では少し冷たかった。俺は少し早足にクローゼットに駆け寄り、じゃばら式のその取っ手を左右に引っ張り、中を開ける。数少ないハンガーに掛けられているのは十代と同じようなデザインの黒いスーツと、白いワイシャツ、そしてネイビーストライプのネクタイ。俺は着替えるために、パジャマ代わりに着ていたジャージを脱ぎ、長袖Tシャツも脱ぎ、パンツ一丁になる。やっぱり寒い。鳥肌が本格的にたち始める前に、ズボンを履きワイシャツに袖を通した。ネクタイを引っ張った辺りでふと、この部屋唯一の出入り口に視線を向ければ、彼は壁に背を預けた状態で此方を見ていた。こういう何気ないワンシーンなのに、黙って立っているだけで絵になる彼は、男の俺が認めざるを得ないほどのイケメンだ。
しかしなんだろう、最近はそこまで意識したことは無かったが、彼は変わった。外見的なものはもちろんそうなのだが、ただそれだけというわけではなく、十代は精神的に大人になった。彼女と出会ったことで、彼は大人になった。あの姿のまま異世界を少なくとも2カ月、場合によってはそれ以上を過ごした十代は、彼自身の意思とは別のところで否応なしに、経験を重ねることとなったのだ。俺は十代じゃないから詳しいことは分からないし、彼も進んで話そうとしないから分からない。しかし世間一般の倫理観からすると、これを是と捕えるのだろうか、非と捕えていいものだろうか。俺は首のネクタイに右手を掛けたまま、無意識のうちに彼と見つめあう形になる。
「本当に、さっきからなんなんだよ」
彼が俺の視線に気が付いて、訝しげに言葉を紡ぐ。
「…ちょっと、懐かしい昔の夢を見ただけさ。アカデミアに通ってた頃の」
自嘲気味に呟くと、視界の脇に映る十代の眉が少し釣り上がるのが見えた。一度ずらした視線を彼の方に投げかけてへらりと笑えば、十代は暫く間を置いて、それから呆れたようにため息をつき、踵を返した。
「行くぞ。…間に合わなくなる」
十代は、心なしか早いテンポで靴の音を響かせ、石造りの廊下を進んで行ってしまう。俺は慌ててジャケットを羽織り、ベッド脇のテーブルにある小さな名刺大のカードケースをスーツの胸ポケットにしまい、動かない携帯は放置して、扉の脇に引っかけてあった車の鍵をフックから取り上げ、早足に部屋を出た。朝飯を食べていないことを頭の片隅で思ったが、十代はおそらく食事をゆっくりととらせてくれないだろう。寝坊をしたのだから自業自得である、俺は諦めて、今日のスケジュールを頭の中で組み立てることで、空腹を紛らわす事にした。
大理石の長い廊下を抜け、鉄製の扉をくぐり、ほぼ一年中冷たい空気が淀む地下の車庫へと出る。ほぼ毎日通るその道筋を歩く俺も十代も、無言になる。仕事の前ではあるが、この時間、瞬間がいつも、俺の気持ちを仕事へ向けさせてくれる。コンクリート打ちっぱなしの地面を、2人分の足が踏みしめてバラバラな音を立てる。俺は彼の背中を自然と見つめる形で、後を追いかける。
車に乗り込んだ際、ふと視界に映った、助手席に座る彼の横顔。夢の中で見た、花の咲く様な満面の笑みを重ね見てしまう。首を振り視線を前に向け、車のカギを差し込み、エンジンを吹かすことで少しでも気持ちを切り替えようとしたものの、なんだかあの夢が頭を離れない。俺はアクセルを勢いよく踏み込んだ。ヴン、という独特の音がして、車体は前進する。
一体彼は何を見聞きして、何を見て、何を感じてきた?そして今、彼は何を思って、今を生きている?――考えても、分からないことだらけだ。彼はいつも抱えている。長年連れ添う俺にさえ言わない、何かとてつもなく巨大で、覆しようのない、まるで生まれた時からそうであるように定められているかのようなそれを、彼は大切そうに守っている。俺はその事に対して多少なりともコンプレックスを感じていたし、やりようのない嫉妬の念を向けた事さえあった。喧嘩だってたくさんした。殴り合いの喧嘩でボロボロになるまでやりあったこともあった。その時は二人して鮎川先生に消毒液を嫌という程塗りたくられたこともあった気がする。
それでも、アカデミアからの腐れ縁でここまで一緒に、十代との関係としては友達、むしろ悪友とでも言おうか、そのぐらいの立ち位置を確立しているつもりだ。なのに、彼には昔から、飽きっぽい俺を飽きさせない「何か」があった。それが俺を、いや、俺だけじゃない、他の人を引きつけて止まないのだということは、よく分かっていた。大げさに言ってしまえば、その「何か」はとんでもない魅力であり、十代という男を飾り立てている。そしてそれを垣間見てしまった瞬間から、俺は彼の虜になっているのかもしれないと、そんな変な考えに至る。そうじゃなければ、今こうして彼と同じ仕事につこうだなんて考えもしなかった。普通ではないのはよくわかっていた。男が男に魅力を感じるなんて可笑しいと、我ながら思う。でもそれ以外に、自分が彼に対して抱く生半可でないこの想いを上手く説明する方法を知らない。
「(ああ、だから俺はあんな夢を見たんだ)」
俺と十代の関係が一生変わらないのを願う反面、心のどこかで気が付いてほしいと祈ってやまない。そこには逃れられない背徳感があり、俺は、この日本の、狭い世間という風波に曝されて生きてきた人間なのだということを、嫌という程思い知らされていた。そして彼の隣にいることが幸せであり、苦痛でもあった。
自宅から出て一番最初に見える十字路の、赤い信号のランプが付いて消えるまで、俺はそんなとりとめのないことを考えていた。その時の俺の表情はどんなだっただろう。気にかける余裕すらなかったから多分酷い顔をしていたとは思うのだけれど、それを彼に見られていたのかと振り返るだけで、ぞっとするような思いに囚われる。
十代は俺のことをどう思っているのか。言葉にできたらこんな夢も、見なかったのだろうか。友人という言葉に、喜びと悲しみを覚える俺を可笑しいと、罵ってくれさえすればいいのに。俺は絶対に起こりえない未来を想像しては、自分を消してしまいたくなるほどの羞恥と良識に苛まれて、そうして臆病なままいたづらに時の経過を願うのである。
信号が青に変わる。車が前に動き出す。どんよりと落ちている鉛色の空が、3日に渡る季節外れの長雨を降らす、12時間ほど前の出来事だった。