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あの日から、俺は休んだ分を取り戻すべく仕事に勤しんでいた。なにより、なにか忙しくしていないと徒らにあの日のことを考えてしまいそうだったので、一時的にでも忘れてしまいたいという個人的願望もあった。普段ならそこそこに仕事して早々に切り上げるデスクワークだけど、ここ数日は周囲の方の仕事を手伝ってまでデスクに噛り付いていた。緊急で外に出るようなこともなくて、それは一種の退屈にも似ていた。
ふと、ペンを止めてガラス張りの窓に夜景の光が星空のごとく埋め尽くしているビル街を眺める。誰もいないのはオフィスの戸締りを譲ってもらった時点でわかっていたが、人のいない広いフロアに微かに届いてくる夜の街の喧騒は、寂しさを感じるものがあった。自分のデスク周りにだけ明るい光が落とされているのも、一人でいることを嫌でも思い知らされる瞬間だった。あと少ししたら、このビルの終業時間になる。早く出て行かないと、ビルの管理の方にも迷惑がかってしまう。そう分かってはいたが、完全に止まってしまった手は動くことを拒絶していた。
「仕事、順調?」
そうして止まっているところに、思わぬ声がかかった。回転式の椅子を回して体ごと振り返れば、いつの間にかフロアに一つしかないドアが開いていて、人影がすっと伸びているのを見る。廊下の蛍光灯が部屋に漏れこんで逆光になっており、目がくらむ。
「まだ仕事してたんだ」
白いシャツに、くすんだゴールドと青のストラップネクタイを緩く締め、少しくたびれた濃紺のスーツに身を包んだヨハンが、入り口のドアを後ろ手で閉めながら入ってきた。パチリ、とヨハンが壁際のスイッチを押した。煌々と光る蛍光灯が室内に落ちていた影を拭い去って、ビル街の星空が霞んで見えなくなる。
「お前、外仕事じゃ…」
彼が来ると思っていなかったから、俺は純粋に驚いていた 。ヨハンが十代と一緒に朝から仕事で出ていたことは、周囲の人から伝え聞いていたから、今日も顔を合わせることもないだろうと思っていた。なのに、まさかここで遭遇するなんて。気まずさを感じているのがヨハンに伝わってしまったのか。所在無げに視線を迷わせ、俺の視線とかち合えば降参でもするように手を上げ、笑ってぴらぴらと紙を一枚上下に揺らす。
「俺、この報告書出したら終わりなんだ」
そう言うと、普段報告書を提出する書類ケースがある壁際のテーブルに小走りで駆けていった。ふわりと、空気が動いたことで、空気が淀んでいたのを感じる。ヨハンがケースに書類を仕舞いながら、物欲しそうにデスク上のお菓子を眺めている。なんとなく椅子に座ったままヨハンを視線で追いかけていて、その視線にヨハンが振り返った。なんとなくバツが悪くて、俺は慌ててペンを握り直し机に顔を向けた。
「はまだ?」
ヨハンが笑みを滲ませて、呼びかけてくる。フローリングには防音の絨毯が敷かれているが、それでも彼が自分の方に向かってきているのは嫌でも分かった。
「ん、まぁ、」
机の書類に視線は向いているのに、視界の隅に映ったヨハンの、ほんのり赤みがかったダークブラウンの革靴がじっとりと濡れていることが気になって、なんとなしに顔を上げる。そうすると、ヨハンがこちらに手を伸ばしていた。びっくりして、椅子から立ち上がってしまう。行き場をなくしたヨハンの手は、宙でとまった。
…数日前のあの言い合いから、俺はヨハンを気にしすぎて、周囲に不自然に映るくらい警戒していた。ヨハンが俺にそういう感情を持っていると分かると、やはり身構えてしまう。それは恐らく、ヨハンも分かっているのかもしれない。互いに黙ったまま向かい合う形になる。沈黙に耐えきれない堪え性のない俺は、ヨハンの顔を盗み見た。すると彼が視線を俺の足元に向けていることに気がついた。なんだと思って床を見れば、先程立ち上がった反動で机に置いてあった書類の一部が散らばっていた。慌てて拾い上げると、ヨハンもしゃがみこんで幾つか拾いあげていた。
「まったく、なにしてんだよ」
嫌味なようでいて、何時もの調子の軽口を叩きながら、ヨハンは書類を拾い上げ、軽く手で埃を払って手渡してくる。それを受け取りつつも、いまだ落ちている書類に手を動かす。
「う、うるさいな…」
あまりに露骨な雰囲気の壊れ方ではあったが、なんとなく軋んでもたついていたヨハンと俺の空気はやや緩和されたように感じられた。全部拾い上げたところで、俺は書類の並べ替えをしなければならないと気がつき、ため息をつきながら椅子に腰掛けた。ヨハンは俺のその表情に察したのか、苦笑を漏らした。
「まあ、頑張れよ」
「…、ありがと」
ヨハンは扉の近くにかけられていたコートを取って、廊下に出て行く。バタン、と扉の閉まる音がした。辺りはまた静まり返る。ヨハンはこれから帰るのだろう。ふと、彼のデスクは窓際の一等席に置いてあるが、使っているのを見たことはほぼ記憶にないことを思う。彼はあまり、座って固まったまま同じ作業をするのは得意ではない。俺もデスクワークはどちらかと言えば苦手な部類だから、早く終わらせて帰りたいと思うのは当然である。けれども、十代と鉢合わせするのはそれ以上に気が進まなくて、この書類が終わったら少し寄り道でもして遅く帰ろうと決めた。時計の針は、あと数分で7時を指す。
俺は止まっていた手を進めて、報告書を並べ直し、まとめていた最後の一文を丁寧に書き終えた。息をついてぐっと背を伸ばす。ぼきぼき骨を鳴らしながら、ホチキスで左側を留めた。立ち上がるのが億劫だったので、キャスター付きの椅子を転がして、お菓子が山盛りになっているテーブルまで座ったまま移動する。普段であればフロア長の目が光っていて出来ないが、今は誰もいないこともあって開放感を覚えながら、足と腕を使って速度をつけて、テーブルの前に躍り出る。机を押す角度がうまくいかず、くるくる景色が回りだす。バランスを崩しかけて、テーブルの縁を掴んで椅子を止めた。腕だけ伸ばして、書類ホルダーを乱雑に開けて入れる。これで今日はお終いだ。帰るために手荷物をまとめようと、自分のデスクまで椅子を転がして戻る。途中同僚の机を蹴っ飛ばしたら思いの外大きな音がして、誰も咎める人がいないのに慌てて、そんな自分が可笑しくて笑いながら戻る。誰もいない放課後の教室に居る時の高揚感。久方ぶりに噛み締めながら、俺は机の上を簡単に片付け、デスク横に下げていた鞄を掴み、椅子を元の位置に戻した。
「、終わった?」
椅子にかけていたコートを羽織っていると、ヨハンがひょこっと戻ってきた。もうとっくに帰ったものだと思っていたから、また俺はびっくりしてしまう。俺は今日何度ヨハンに驚かされているんだろう。
「ヨハン?帰ったんじゃないのか」
「いやぁ、傘忘れたの思い出して慌てて折り返してきたとこ」
そう言ってヨハンは、出口の扉のすぐ隣にある傘立てから、深い濃紺色の傘を引き抜いた。そういえば今朝は雨が降っていたんだ。俺は折りたたみ傘が鞄にはいっているのを確認した。ヨハンが廊下に出ていて、ふと、扉のすぐ横に下げられたクリップボードが視界に入る。この後戸締りをしなければいけないことをすっかり失念していた。手に取った鞄を机に戻し、引き出しからペンを取り出す。
「あれ、帰るんじゃないの?」
ヨハンが訝しげにこちらを伺う。コートを羽織って鞄を持っていたから、帰り支度を済ませているように見えたのだろう。実際そうだったのだが、やることを思い出してしまったのでまだ帰れない。ヨハンの立つ扉の隣のクリップボードを取る。
「今日戸締り当番だから」
「へぇ、…戸締りって当番制なんだ」
直帰だから、知らないのは当然だろう。現に俺も任されるのは久しぶりだ。ヨハンは意外そうに俺が手にするクリップボードを覗き込んでくる。いつの間にか後ろにまで距離を縮められていて、驚きで一瞬固まってしまう。
「俺も手伝うよ」
そして何を思ったのか、ヨハンはひょいっとクリップボードを取り上げた。まさか取るなんて思ってもいなかったから、視線で追うように顔を上げる。少し見上げる位置にあるヨハンは、至って真面目で真剣な表情をして、クリップボードを見つめていた。
「あ、おい、」
「えーと、まず窓の戸締りか」
手を伸ばして取り返そうとするも、腕のリーチが俺より長いヨハンから上手く取り返せない。そんな俺をお構いなしに、ヨハンは廊下から中のフロアに躍り出て、フロアの窓に向かって歩いて行く。
「おい、ヨハン、俺がやるからいいって」
慌てて追いかけて服を引っ掴めば、さすがのヨハンも足がたたらを踏んで止まる。その隙をついて取り返そうとするも、タダを捏ねる子供のように、俺の手の届かないところにクリップボードを持ち上げて、挿まれたチェックシートを読んでいる。
「俺は頼まれてんだよ」
「だってこれ、結構あるじゃん」
「そりゃ、そうだけど…」
確か30項目近くあるから、面倒といえば面倒だ。2人で分担してやればすぐに終わるのは考えなくてもわかることだが、でもヨハンは帰る途中のはずだ。そもそもいつも直帰しているのに、なんでこんな時に限って強情なのか。変に勘ぐってしまうのはもはや癖だ。2人きりになるのが気まずいことをどう伝えたらいいかと思案するも、うまい言い回しが出てこなくて言葉が濁る。
「ねぇ、ゴミ捨てくらいやらせてよ。ヒマなの」
しまいには甘えたような語尾がヨハンから飛び出てきたことで、ついに俺は言葉を失った。返す気力が削がれて、俺はヨハンに言いくるめられたのだと悟る。
「…お前、そんな柄だったっけ」
「ううんにだけ特別」
こんな台詞をさらりと事も無しに言ってしまうあたり、ヨハンは本当にフェミニストだと思う。あまりにナチュラルだったから一瞬反応に遅れたが、どこか余裕ある風にしているのが殊更ムカつく。腹の虫が収まらず、俺はふう、と息を吐いて、掃除用具の入った棚からゴミ袋の入ったビニールを取り出し、投げつけてやった。
「あてっ」
「手伝うんだろ。早く帰るぞ」
べちゃり、と音を立て、ヨハンの頭にクリーンヒットしたゴミ袋が床に落ちる。それに気が逸れたらしいヨハンの手から、チェックリストシートが貼り付けてあるクリップボードを難なく奪い返した。ヨハンがそれに気がついてあっ、と声を上げる。反射的に取り返そうと手を伸ばすので、俺はその手を右手に持っていたペンでぺちりと叩いた。
「なんだよ〜、やるなって言ったり手伝えって言ったり…」
「お前なぁ、戸締り頼まれた俺がやらないでどうすんだよ…。邪魔しに来たのか?」
「え〜っ、理不尽」
手を押さえながら文句を垂れるヨハンに、クリップボードを振りかぶって彼の頭を叩く動作をすれば、まだ叩いてもいないのに悲鳴が上がった。そして痛みが来ないことに気が付き笑うヨハンに、本当にぶっ叩いてやろうかとガンつける。ヨハンはようやく、そこで少しニヤついていた口元を慌てて正した。
「あ、ごめん、ごめんって。真面目にやるから」
痛そうに頭をさすりながら、ヨハンは駆け足でこれ以上叩かれては堪らないといった様子で苦笑いし、床に落ちたゴミ袋を拾い上げ、フロアに点在するゴミ箱に足早に向かって行った。
俺も早く終わらせて、ヨハンと2人きりのこの状況から脱出したい。ヨハンがどれだけ気にしていない風でも、俺は気になってしまうのだ。早速、一番近いところの窓の戸締りを確認するところから取り掛かった。
×××
ヨハンは結局、最後に忘れ物がないかロッカー室を確認して、エントランスの戸締りするところまで手伝ってくれた。途中ふざけて隠れんぼしようなんて言いだした時は、俺の表情筋が全て死んだような顔をしていたとヨハンに指摘され、爆笑された。そしてその頭をクリップボードの角で叩いてやったのは記憶に新しい。ただ頼まれた戸締りをしただけなのに、変に疲れを感じたりなんかしていた。
紆余曲折あったがチェックリストの全てに円をつけることができたので、警備員さん立会いの元鍵を締めた。俺は首から下げていた鍵を警備員さんに渡して、従業員通用口から、階段の踊り場に出る。後ろをヨハンが着いてくるので、仕方なく鉄製の扉を腕で支えながら出てくるのを待ってやる。ヨハンは軽くありがとうと言って、踊り場から階段へと足を運んだ。俺はヨハンを追いかけるように、扉を後ろ手で締める。
「はー、いよいよ明日だな」
錆びた蝶番の音が、耳の鼓膜を震わせるのと同時に、掠めるようなヨハンの声帯の震えが、すっと耳に入ると、頭は勝手に言葉に変換して理解を促してくる。
「…ああ」
異世界行きを決めるデュエルは、明日行われることになった。結局、ヨハン以外の誰も立候補もないし、ヨハンもヨハンで案外やる気になっていて。人から聞いた話だが、ヨハンの部署でも俺の部署でも、どちらが勝つか賭けが機密裏に行われているらしい。賭け事の対象になったことがアカデミアで何度かあったからそこまで気にならないが、でも今は色々なことを知ってしまったからこその重みが違う重圧になってのしかかる。賭けの人が増えれば増えるほど、俺の一挙一動が絶え間無く見られていて、そして期待という名のエゴを押し付けられて、正直なところ気疲れしていた。ヨハンは恐らく、そのことを知らない。たとえ知っていたとしても、豪胆な性格をしているからさして気にしていないのだ。ぼんやりそんなことを思いながら、さすさすと両手をさすっているヨハンを見つめる。
「なぁ、はどうして異世界に行きたいって思った?」
視線は絡まないのに、本当にふと思ったであろう何気ないヨハンの疑問が、俺に投げられる。あまりにぞんざいなその問い方に思うところがあったが、期待の篭った瞳に見つめられれば、答えてやらないとと思う半面、本当のことは言いたくなくて、本心でもない言葉が口をついて出る。
「…最初は、ペガサスさんの声掛けがあったから、行こうと思った。だけど、今はペガサスさんに恩を返したいっていう気持ちもある」
「それで?」
「…それで、って…」
「の建前は聞き飽きたんだよ」
けど、ヨハンにはバレていた。いたずらが成功した時とあまり変わらない嫌味な笑顔が鼻につく。
「…悪かったな」
流石に虫の居所が悪くなって、俺は頭を掻きながら俯いた。別に嘘をついたわけではないけど、建前だとバレていて流暢に口に出してしまうことのほうがよっぽど羞恥心を煽られる。
「今更そんなの聞かされても、寒気がするね」
「うるせぇ」
「いった!くそ、手加減しろよな」
ヨハンの無神経な言動にさすがにイラつかずにはいられなくて、頭を叩いてやった。案の定悲鳴が上がって、ぶちぶちと文句を言われる。
「で?本当は何で、異世界に行きたかったんだっけ?」
「―――それは」
俺が、異世界に行きたがった理由。そんなの、十代が居るからに決まっている。彼が、彼だけがあの時は俺の絶対だった。もしかしたらそんな俺を分かっていて、十代は俺を良いように使っていたのかもしれない。けど、脳裏によぎるのは十代と喧嘩した日に見た怒りの表情だ。あの時、ヨハンを殴ったのはなぜだろう。考えれば考えるほど、不可解なのだ。ヨハンと十代は仲が良い。アカデミアの時だって仲良しだったし、それは今も変わらないのは言うまでもない。一緒に仕事をしていなくてもその噂は耳に入ってくるくらいだ。互いに互いが言いたいことが分かっているように連携プレーを見せるので、さながら夫婦のようだなんて冗談も囁かれている始末。そんな二人が殴り合いをするなんて、俺は少なくとも見たことがなかった。だから十代の怒りの理由が、考えれば考えるほど、俺に少なくとも好意を持っているようにしか考えられなかった。けど、それでいて俺の気持ちをヨハンの口から聞いているにもかかわらず、何のリアクションもなかったのは、好意のベクトルが違った、なんてことも考えられるからまたややこしい。
「それは?」
座礁した思考の船を海に引きずり戻したのはヨハンの一声だった。ヨハンのブルーの瞳と視線がかちあって焦点が合うと、ようやくヨハンの問いが思い起こされて、答えるのも面倒になった。こんなややこしい感情は伝えなくていい気がした。
「…やっぱ言わない」
「そこまで言っておいて、それかよ」
純粋にきらきらと輝くヨハンの瞳に、俺は酷く後ろめたくなった。こんな時まで十代のことを考える自分に、ほとほと呆れ返ってしまう。でも、だからこそ、この想いは譲れない。それだけは、ヨハンに言わなくては。
「…あ、のさ」
「ん?」
「…やっぱり、俺、ヨハンは、さ。いいヤツだと思うよ。…でもさ、友達だと思うんだ」
痞えながら俺が話す間、ヨハンはじっと、真っ直ぐに俺を見つめていた。ここで逸らすのは憚られて、俺はヨハンに思いの丈を伝え切る。真剣な色を帯びた瞳には、悲しみや怒りという感情はなくて、俺は逆に不安になる。
「うん、知ってる。十代が今も好きってことも」
ヨハンはそう頷くと、困ったように破顔して、首の後ろを掻いた。なんだ、知ってるって。こっちは散々悩んだっていうのに。心の中で罵倒する。ヨハンが穏やかな表情をし、凪いだ瞳でこっちを見るから、こんなモヤモヤとした気持ちでいる自分がいっそう惨めに感じるのだ。
「…知ってるなら、聞くなよ」
「が話してくれたんじゃないか」
深く溜息をつけば、ヨハンはあっけからんと笑う。自分の弱さを、ヨハンの強さに対比させてしまって、もうこれ以上ヨハンになんて言葉をかけていいのか、どう接していいのか皆目検討もつかなかった。けれど一つだけわかった。ヨハンは俺に普段通りでいいと、自然体のままで居て欲しいと、友人と同じように接しているんだろう。気がついたって、無理なのは俺が一番わかっているのに、ヨハンがそれを欲していることに気がついてしまったのだ。どうして、俺と違ってこんなにわがままになれるんだろうと、ヨハンを恨みがましく見る。けれどヨハンは、そんな俺の視線なんてお構いなしに、笑う。
「なぁ、もっと自分に正直になっても、いいんじゃないか?…伝えないで後悔するより、伝えてから後悔するほうが、よっぽどいい。だから、自信持てよ」
ヨハンの言葉に、俺は沈んでいた心に突き刺さるものを感じて、口を噤んだ。自信。それは生涯につきまとう祝詞のように、一種の麻薬のように、魅惑的な響きを撒き散らして、俺の心にのしかかってくる。ヨハンは俺を、よく「見て」いた。
「もっと胸張って、周りとか気にしないでさ。自分のこと好きになってよ」
そうだ。今の俺には自信がない。そしてそんな自分が大嫌いだとも思っている。たまらなく惨めになるのだ。アカデミアの頃にあったような、向こう見ずな自信は、もう無いのに。手すりを掴んだ自分の手は、隣にいるヨハンの節ばったそれより一回り小さく見える。
「ヨハン、俺は自分が嫌いなんだ」
「そう?俺はそんなが好きなんだけど」
「なんで、」
「なんでって…が幸せになりたいって思うのに、理由なんか必要ないだろ。俺はずっとの味方なんだから、幸せになってもらわないと困るの」
そう言って、ヨハンは満足気に鼻を鳴らし、笑う。馬鹿にしたようなものじゃなくて、心の底からそう思って言っているのがわかった。街灯に照らされたヨハンのブルーが、乱反射してプリズムを放つ。全身全霊の気持ちをこんな直球な言葉で貰うのは、人生で初めてかもしれない。不意打ちで食らった俺は堪らず、顔に熱を感じ、慌てて顔を逸らした。
「…ほんと、お前イイ奴だよ」
だからつい、絆された気分になる。悟られないように、階段の踊り場から階段へと方向転換して足を進めた。ヨハンが後ろを追ってくる気配を感じながら、顔の火照りをどう冷ますかについて必死に脳内会議していた。こんな歳になって年甲斐なく恥ずかしく思うなんて、生娘でもあるまいし、と自分に言い聞かせるが、心拍数の上がる心臓は止まらない。
「…あーあ。お前が、女の子だったらよかったのになぁ」
ヨハンは小さな声で笑って、呟く。誰もいない階段で息するように言ったそれは、足音の隙間を縫って耳に入ってくる。もしもそうだったら、お前は十代と付き合っていたかもしれないよ、などと皮肉を舌の上で転がすけれど、声帯を震わせることはしなかった。だって、もしもなんて話、アカデミアの頃に散々考えていた。でもヨハンの気持ちが俺と同じくらい強いのだと再確認してしまって、やっぱり聞かなければよかったなんて思ったりして。それでも前みたいな自己嫌悪の感情は、少しだけ軽減されていた。
暫く、互いに無言になる。けどこの沈黙に、前みたいな変な澱みはない。階段を下りながら、ヨハンが携帯で話し始める。どうもタクシーを呼んでいるようだった。ヨハンはここから少し遠い海沿いのアパートに部屋を借りているので、そっちに向かうのだ。俺はこの階段を下りて、ビルの駐車場に止めた車に向かう。ここで別れると思い、別れの挨拶をしようとすると、ヨハンがとん、と肩を叩いた。
「十代が、…お前に言いたいことがある。ってさ」
携帯を閉じたヨハンが唐突に切り出すので、俺は理解が追いつかない頭でヨハンを見上げた。混乱している風が伝わったのか、ヨハンは可笑しいと言わんばかりにクスクス笑う。
「家で待ってるって、十代から伝言。早く帰ってやれよ。…じゃ、また明日」
俺の頭を叩くように撫ぜ、背を向けたヨハンは、路地の先にある大通りに止まったタクシーに向かい足早に去って行った。車の発車のエンジンが耳に飛び込んできてようやく、ヨハンがなんと言ったか理解した。そしてますます帰りたくなくなったのも、この時だった。
辺りはもうすっかり夜になっていて、頭上の頼りない街灯がちらちらと瞬いては、自分の影を四方に揺らしている。俺は一歩踏み出して、自分をビルの影に埋める。ヒヤリとした空気がコートの隙間に割り込んできて、思わぬ冷たさに首を竦めた。街灯が水溜りに反射し、ちらついている。昨晩から降り続いていた雨は、とうに止んでいた。