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リビングで料理を作っているのが十代だと判明したのは、俺が玄関に足を踏み入れた時だった。
玄関からダイニングまで全て繋がっている広い部屋の一角に、カウンターキッチンはある。大理石でできたシンクを取り囲むように、木目調の収納棚が備え付けられていて、そこだけ見たらどこかの高級マンションのモデルルームにも見える程度には使用感のないそれの前に、似合わない白とブルーのボーダーエプロンを身にまとった十代が、普段だったら絶対に手にしないであろうお玉を片手に料理をしていた。
「おかえり」
驚いて絶句する俺を尻目に、十代は素っ気なく言葉を投げつけてきた。俺はその言葉と景色が見せるインパクトに返す方法が分からず、ただ口を開いてマヌケ顏を晒し、反射神経的に呼応する返答を弱々しく棒読みするしかできなかった。
「…ただいま、」
こちらに視線すら向けず、十代はお玉で鍋をかき混ぜている。ぐるぐると鍋底を削るように力強く混ぜる様子は、何か禍々しいオーラすら感じる。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気まずさに押し込まれて、俺は背を向け靴からスリッパに脱ぎ変えることにした。
数時間前に仕事場から出た俺は一直線に帰宅、なんて訳もなく、車を運転しながら普段より遠回りして帰ってきた。十代が家で待ってると分かっていて、何処かに立ち寄ってご飯を食べる気にはなれず、かといってどんな顔をして会ったらいいのか、何を話せはいいのか分からなかった。ハンドルを強く握りしめてアクセルを踏み込んだりブレーキをかけたり、という動作を作業的に繰り返しながら悶々と考えるうち、曲がる信号を直進し、逆に曲がらない道に入り込んでしまったりで、普段の道に戻るのにやけに気疲れしてしまった。結果、ヨハンに別れを告げ、仕事場を出たのは8時ごろだったのに、家に辿り着いたのは10時という状況である。加えて十代がこんな夜遅い時間に料理を作っているなど、想像の余地もなかった異常事態で、無駄に疲労した脳が混乱するのは無理もなかった。ただ、日常的な習慣というのはこんな時にでも発揮されるもので、気が付いたときには脱いだ靴をクロスで磨き終えていた。
「、ちょっといいか」
そんな意識が半分飛んだ状態だったから、十代に名前を呼ばれたことは完全に不意打ちだった。普通の呼びかけにさえ、心が飛び跳ねる。前だったらこんなにびくびくした態度をとるなんてなかったのに、あの日の一件から十代を前にすると普通に振る舞うことができない。クロスを四つ折りにして、靴のお手入れ箱に放り投げた。それで靴と一緒に少し乱暴にシューズボックスにしまって、立ち上がり、覚悟を決めて振り返る。
「…いいけど」
十代はこちらを見ていないはずなのに視線を感じ、妙な緊張感に包まれながら、俺はキッチンの対面カウンターに腰掛けた。十代は相変わらず神妙な面持ちでお玉を持ち、くるくると鍋をかき混ぜている。
十代は何もしゃべらない。コチコチ、と時計の針がひたむきに時の経過を伝えてくる。稀に風呂の追い焚きを知らせる電子音が無感情に流れる以外は物音はせず、火が燻り鍋の中身が沸騰してふわふわと香りがこちらに漂ってくる。スープの温かな香りを嗅いでぼんやりと眺めていたら、不意に十代の手が止まったことに気がつく。カチ、と音がしてコンロの火が消え、互いの視線が合わさり、自然と向き合った。
「…俺、とこれ以上友達でいるのは無理だ」
十代は困ったように俯く。俺が確信を持つには十分な動作だった。十代と友好関係を築くのは無理であることを、否応無しに認めなければいけなかった。そして彼の拒絶を受け入れなければいけないことに、頭がショート寸前まで陥っていた。
「そ、うだな。…そうだよな、友達じゃ、いられないよな」
自分に向けて言い聞かせるように、俺はそう告げるしかできなかった。もう十代とはこれまでと一緒ではいられない。分かっていたことなのに、自分に嘘をついているようで辛くて仕方なかった。
「…俺には、…止める権利はない」
他人事のような言葉に、真意かわからず尋ねようとするも、突然決意の篭った瞳で見つめられた。カウンターに無意識に置いていた手を、重ねるように握られて動けなくなる。触れ合った体温には僅かな差があった。どくん、どくんと脈打つ心臓の音が聞こえてしまわないか、相手に自分の熱が気づかれはしまいかと、気を揉む。
「…遊城?」
彼の苗字を呼ぶ自分の声が、あからさまに震えている。彼もそれに気がついているだろう。いくら気心知れた友人の立場とはいえ、彼と手を繋いだことがなかったから、平素を装うことがこんなに難しいと知ったのはこれが初めてだった。
「なぁ、。今の俺は、どう思う?おまえに…どう見える?」
彼の瞳は鈍く柔らかい光を放っていて、俺はその輝きに心を奪われ、吸い込まれそうになる。いつもの、自信に溢れた彼の行動からは想像もつかない弱々しい言動に、魅惑的な優越感が脳裏を埋め尽くして、目眩がする。
「…っ!…ど、うしたんだよ…」
綺麗だ、と言いかけた口を閉じ、問いに問いを返すという濁した返事で視線を逸らすのが精一杯だった。魔法にでもかかったように、カウンターに置かれた俺の手は彼の手のひらに覆われ、火の温もりを移されている気分でたまらない気分になる。彼の顔が直視できない。
「…いや、たいしたことじゃない」
返事ができない俺を見兼ねたのか、十代は俺の手を解放する。握りしめた手のひらが、やんわりと外れていく。元々きつく握られていたわけではないから、するりと撫でるように離れていく彼の手を追いかけそうになって、ぐっと自分の手を握りしめることで誤魔化した。
十代は鍋のお玉でスープを小皿に乗せ、味見をした。十代は納得したように頷くと、二枚重なった深皿の一つを持ち上げ、並々と注いで、カウンターに座る俺の前に置いた。大好きなミネストローネだった。出来たてのミネストローネから柔らかく湯気が立って、俺の空になった胃袋を一層刺激する。そこでようやく、俺はお昼の時間から何も口にしていないことを思い出した。
「さっきのは、忘れてくれ。…飯にしよう」
十代が普段と変わらないトーンでそう言い、もう一つの深皿に十代の分のミネストローネをよそって、俺の隣に置いた。
「…うん、」
俺は緩やかに手を机から下ろし、もう片方の手で握りしめる。こんな穏やかに悲しく笑う彼の表情を、忘れるなんて出来ない。彼の持つ、澄み切った美しい瞳に、惹かれないわけがなかった。彼に焦がれる火照りは、こんな程度で収まるはずもなく、膨らんで内部で爆発を繰り返す。でも一つだけ腑に落ちないことがあった。彼が一瞬の笑顔を見せた後、思い詰めたように、眉間に似合わないシワを寄せる理由がわからなかった。
十代が俺を嫌っていたとするなら、わざわざ手のひらを握りしめるなんてするだろうか。
ふと、ヨハンの言葉がよぎる。相手にどう思われているのかわからず不安に駆られているのは俺だけじゃなくて、十代も同じなんじゃないか。なんて勘違いも甚だしいことを考えてしまったのだが、そのわりにやけにしっくりくるので、俺はその勘違いに身を委ねることにしたのだ。二人分の茶碗にご飯を盛っている十代を見て、俺も何もしないでいるのも申し訳なくなり、イスから立ち上がり、食器棚から箸と木製のスプーンを取り出した。新品の匂いと手触りが新鮮に感じる程度には、俺たちは料理をしない。使い慣れているはずのリビングが、初めて来た時と同じ居心地の悪さというか、むず痒さを覚える場所に逆戻りしたようで、落ち着かなかった。
二人きりでミネストローネと炊き立ての白米を黙々と食べ、空になった皿や鍋を食器洗浄機に突っ込むまで、俺は纏まらない思考の中ゆっくりと十代にもう一度思いを伝える決意をした。玉砕しているのだが、それでも直接十代に面と向かって伝えていないことが、どうしても心残りだった。傷つけないように配慮してくれているのかもしれないが、それならいっそハッキリ嫌ってくれた方がマシだ。
十代は今、バルコニーのソファに腰掛けて外を眺めている。どんよりと落ちる雲で、星空は見えない。寒くはないけれど、かといって暖かいわけでもない冬と春の境の夜は、上着がないと落ち着かない。部屋の中が暖かかったから、案の定温度差を感じた。俺は部屋の中のソファにかかっていたブランケットを二枚手にとって、バルコニーに出た。
「…ヨハンから聞いた。俺に言いたいことがあるって」
ぎし、とバルコニーの木の床がしなって、十代が振り返ってこちらを見る。部屋から零れる光が眩しかったのか、目を細めて見上げる彼は、やっぱり腹が立つほどイケメンだった。一歩、また一歩近ずくたび、心拍数が上がるのを抑えられない。こんなにも近くにいるのに、心の距離が遠すぎる。
「言いたいことって、なに?」
ブランケットを一つ渡しながら、何気無くバルコニーのソファ、十代の隣に腰掛ける。拳三つ分あけて、距離を保ちながら、俺は深々とソファに背を埋めた。革製の上質なソファは、夜風に当たって少し冷たい。押し付けられたブランケットを広げることなく、視線を落としたままの十代は何も答えない。俺もなんとなくブランケットを使う気になれなくて、十代と同じように膝の上に乗せたまま、視線を空に上げる。
「なぁ、遊城。…俺だって人間なんだ。不安になったりだって、する」
十代が俯いていた顔をあげる。戸惑いの感情が綯い交ぜになった彼の瞳は、暴力的に俺の心に揺さぶりをかける。伝えてしまっていいのだろうか、彼にまた伝えて一体何になるんだろうか、そんな葛藤に心の奥が軋んで悲鳴を上げる。けれど動き出した気持ちはもう止められなくて、宙を彷徨わせていた視線を、十代に向けた。
「…臆病になって、自信がなくなって、どうしようもなくなるんだ」
きっと今の自分は、彼に臆病で自信のない、どうしようもない人間に見えているんだ。彼の柔和な茶色の瞳は、戸惑いを多分に含んでいるように見えた。そりゃそうだ、突然友人だと思っていた人が自分を好いていると知って、今まで通り振る舞う方が無理な話だ。けど、十代からハッキリと答えを聞くのが怖くて逃げたのは、あの時の自分だ。けれど、今は違う。
「だから、はっきり教えてほしい。俺…俺は、…遊城が、…す、好き、だから、……えーっと…その、もし、迷惑、とかだったら、…」
十代が驚いて目を見張る様子に、俺の脳内はまた混乱に陥る。最後の方は尻すぼみになって、十代に聞こえているだけの声量が出ていないだけでなく、最後まで言い切ることすらできなかった。やはり迷惑なのだ。ヨハンが十代を詰問したあの時と同じように、困惑した瞳が、一瞬でも視界に映って、友人だと改めて告げられるのではないかと予測するだけで震えが止まらない。自嘲の笑みが零れて、目頭が熱くなった。結局のところ、恋心を諦めきれずにいたのは俺だった。友愛以上の綺麗な感情は、疑いを知ったその時に消えていたはずなのに。今では彼がわからないだけでなく、自分自身の気持ちにもどう折り合いをつけていいのか皆目見当がつかなかった。
「ごめん。…普通、迷惑だよな、こんなの」
俺は膝に置いたままのブランケットをぎゅっと握りしめて、立ち上がった。彼の返事はない。予想はしていなかったが、それも当然だと思った。十代に相応しい云々の話じゃない。十代は俺を友人としてしか見ていない。そもそものベクトルが、スタート地点が違う。
こんな時になってまた、女ではない自分を恨むような気持ちになる。ヨハンの言うように、俺は俺自身が大嫌いなんだ。こんな奴を友達だと思ってくれているだけでも、十代はとんでもなく懐の広い奴だというのに。それに甘えて縋っていたのは自分だ。だからこそ、これ以上彼の隣に居てはいけない。あの時の恋心に、今度こそ本当に鍵をかけてしまわなければ、そう強く思ったのだ。彼の座るソファから離れて、部屋に戻ろうとする。
「そんなわけないだろ…っ!」
「っ…!?」
けれど、慌てたようにこちらに身を乗り出し、大声を出した十代に腕を引っ張られたことによって、俺はぐらりとバランスを崩す。十代が俺の手首を掴んでいるのだが、骨がしなる音が全身に伝わるほど強い。余りの痛みに彼を睨めば、今度は俺が驚いて心臓を止める番だった。
「ゆ、遊城、」
見上げる十代の瞳が、キラキラと星屑を吸い込んで輝き、俺の心を刺す。零れんばかりの涙が、彼の瞳の淵を覆っている。月の光を反射してくるその様に、美しさに、息が詰まりそうになる。苦しそうなのに、どこか、嬉しそうな様子を口元に滲ませて、十代は俺に問う。
「ヨハンじゃ、ないのか?」
突然出てきた予想外の名前に、俺は一瞬彼が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。だからつい、言葉を失って十代を凝視してしまうのだが、十代も十代で何と言っていいのか迷っているようで、視線が左右に揺れている。
「…あのさ、だって、お前…ヨハンと付き合ってるんじゃ、」
「えっ?!」
「違うんだ?」
十代は恐る恐る、けれど明るく、混ぜこぜになった表情で、俺に尋ねてくる。俺もそれに感化されて、上手くまとまらない感情のまま、吐き出した。いつの間にか十代の腕の拘束は外れていて、逆に俺が十代に縋るように手を固く握りしめていた。
「ゼッタイ、ない!ヨハンはいい奴だけど…あいつは、ただの友達だ、し」
言葉を進めれば進めるほど、十代はますます真剣な表情で俺を見つめてくるものだから、真っ直ぐな視線から暫く逃げていた自分にはどうも刺激が強くて、頭が真っ白になりかける。なんで十代はこんな勘違いをしてるんだ。いいや、そもそも十代が俺に対するヨハンの気持ちを断片的とはいえ知っているのだから、そういう結論が出るのはどうしようもないのだろうか。でもとにかく、勘違いをしていたのなら、撤回しなければならない。
「あ、あのさ…まさかとは思うんだけど、俺とヨハンが…」
「付き合ってると、思っていた」
「…まじかよ」
今まで十代のおかしな態度に疑問を持っていたが、俺が全て勘違いして捉えていたということになる。彼のことを分かっているつもりで奢っていたのは、俺自身だったと気づかされた。おそらく先週のあの日、ヨハンが俺を家まで送って、十代と部屋で鉢合わせした時に、勘違いしたのだろう。何がどうして十代の中に俺とヨハンがくっついている状況になったのかはわからなかったが、それをヨハンに聞かなかったのだろうか。もしかしたらヨハンもヨハンで、十代を勘違いさせるような言動をとっていたのか。今となっては確かめる術すらなかったが、ヨハンがそんな小悪な行為をするなんて想像つかない。
「俺は、ヨハンと付き合ってないから、」
「…そう」
「好きなのは、ヨハンじゃなくて、」
十代の肉刺だらけの手のひらを感じながら、握りしめる手に無意識に力がこもる。十代の顔を見れば、そこいらの女の子すら落とせそうなほどの笑みを浮かべるものだから、期待してしまう。もしかして、彼も俺と同じ気持ちを抱いてくれているんじゃないか、なんて。
「その、…俺は、遊城が、…好き、なんです」
たった一言なのに照れて憤死してしまう。最後の語尾なんか、なぜか敬語になってしまう始末だった。ヨハンのやつ、あいつよく何回も俺に言ってきたな、なんて思い出して、でもその割にはすんなりと言うことができている自身に驚きを覚えた。でも十代がいつもと変わらない調子でこちらを見てくるから、勝手に舞い上がっている自分が恥ずかしくて、結局途中で視線を合わせ続けることができないで、俯く。
「っ、好きなんだよ…」
十代がずっと好きだった。アカデミアの時から、ずっと友達としてじゃなくて、好き。この気持ちにもう、嘘をつかなくていい。溢れだした想いが、熱い雫になって頬を伝うのを感じる。泣いていると気が付いたときには、十代の手のひらが頬を覆い、親指で頬の涙を拭うように撫でる。心臓が飛び出していきそうな状況に、俺は何も考えられなくなって、ついに十代の導くままに顔を上げた。
「…あのさ、。俺、男だけど、それでもいい?」
彼の頬に朱色が灯っているのを見て、俺はますます顔に熱が集中するのを感じる。自分は泣き虫だと思っていなかったが、こんなに感情が高ぶると涙がボロボロ出るなんて、知らなかった。十代がゆっくりと、肩を抱き寄せてくる。区切って伝えてくるそれは自信のない言葉だったけれど、それは今までの拒絶ではなかった。はち切れそうな鼓動が、彼の吐息が、重ね合わせた手と絡み合った指が、彼のすべてが、俺を捉えて離さない。
「…バカ十代。俺も男だっての、」
これ以上泣き顔を晒すのを隠したくて、俺は彼に飛びつくように抱きついた。十代をソファに押し付けるように飛び乗る。十代は驚いていたけれど、その様子がおかしくて笑えば、十代が俺の鼻と十代の鼻をすりすりと擦り付けてくる。恥ずかしくて身を捩ったら、ころりと転がされて体勢が逆転する。満点の星空をバックに十代がこちらを見下ろしてきて、美しい金色の瞳が、俺を射抜いていた。
「、好きだ」
熱に浮かされたように、ボーイソプラノが緩やかに弧を描いた唇から零れ落ちる。俺も十代が好き、と言おうとして、その言葉を言う前に早急に口づけられ、そのまま彼に飲み込まれてしまう。息苦しさとは違う、温かい気持ちで胸がいっぱいになって、変な安堵感に包まれたまま、十代の薄らと開いた瞳の中に星空を盗み見る。
この感情は確かに、恋だった。そして今でも変わらずに、心の中で息づいていたのだ。