魘されるようにして丸藤亮という青年は目を覚ました。
肌に張り付いた汗と目尻から生理的に流れる涙が気持ち悪かった。
暗闇で視界が悪い。窓から落ちる月明かりが嫌に眩しい。
ふと青年は右手を見て、目を見開いた。そして起き上がりベッドへと駆け寄った。
そのベッドの掛布団は乱れ、そこに居るはずの人はおらず、黒い斑点が不気味に存在を主張していた。
覆水盆に返らず
仮面の男のペンダントから放たれた怪しい光に包まれた俺は、次の瞬間、燃えるような暑さの中に落とされた。
悲鳴を上げるのも無理はなかった。落ちている自身の背中に見える赤い何かが、迫って来ていた。
「う…ぉわああああ!?」
それ以降、周囲をまともに確認するなんて芸当はできなかった。
ただ俺はとてつもなく高い位置から落下しているであろう事だけは悟った。
ビュウウという風の音と自分の悲鳴が聴覚を支配する。死ぬんじゃないだろうか。…いや、これは死ぬ!本当に!
俺はパニックに陥っていた。くるくると体が回転して視界がハッキリしないのも、恐怖に拍車をかけた。
「うぐッ」
しかし一際大きな影が視界を掠めたかと思うと、それが俺を落下の恐怖から救った。
でも強烈なブローを食らったように体を何か硬いものに打ちつけた。毬のように体がはねた。
ヒュウ、喉を虚しく空気が通った。背中に震動を感じる。俺は息がうまくできなくてむせ込んだ。
呼吸困難に陥ったように逼迫した声が出る。苦しい。
「おい、やたらと息を吐くな、息を吸え、深呼吸をしろ!」
甚く焦った様子の声がする。自分の呼吸音が酷く耳について、何を言っているのか分からない。
次第に視界がぼう、としてくる。目を閉じる。俺自身、これはマズイと思ったが、意識は沈みかかっていた。
「…チッ、」
舌打ちがした。そして次の瞬間、呼吸が止まりかけた口に空気が入ってくる。
同時に何か液体のようなものが口の中に侵入する。俺は無意識のうち、それを飲みほした。
焼けるようなチリチリとした痛みが喉を刺激する。しかし体の痛みや眠気は、すうっと消えていった。
意識が戻る。軽くなった瞼を開くと、目の前の男が仮面を顔に被せる瞬間がドアップで飛び込んでくる。
「世話の焼ける…!」
男は眉間にしわを寄せ、一つ息をついた。てらてらと怪しく光る、水気を纏った唇をペロリと舐める。
この文面だけで見ると妙な色気を感じるが、残念なことに俺も相手も男でそう言う要素は断じてなかった。
そしてその、仮面の男の所為で、俺は見覚えなんて通り越してただただ絶句するしかなかった。
「お……!?」
だってこの男。
つい数分前まで、亮に刃をつき立て俺を脅し、ペンダントの光に巻き込んだ張本人なんだ。
その男がどうして俺を膝に抱え、抱きとめているのはなぜなんだ。
さっき俺が飲んでしまった液体は一体何なんだ。ていうかどうやって飲ませたんだ。
あと顔がやけに近い。近すぎる。二十センチ、いやもっと、近い。気の所為なんかではない。何なんだ、この男は。
悲鳴を上げなかったのはある意味奇跡だった。
めまぐるしく変化する状況に、覚醒してしまった脳のキャパシティはとうに限界を迎えていた。
「…貴様、まだ"覚醒"しきっていなかったのか」
なにか訳のわからないことを呟いた男は、俺を見て意地悪そうに口元をゆがめた。
仮面でほとんどが覆い隠されているのでどんな表情をしているかまではわからなかった。
でもこれだけは分かった。男はこの状況を楽しんでいる。この時ばかりは疑いようが無かった。
一度そう意識してしまうと、ビシリ、金縛りにあったように体が強張った。
黒い竜が半透明な盤上に、しっかと降り立つ。
仮面の男は俺を抱きかかえたまま竜の背からひょい、と飛び降りた。俺はまた情けない悲鳴を小さく上げた。
いくら竜が体を地面に近づけていたとはいえ、その高さは3メートル以上はあった。
にもかかわらず、仮にも成人男性である俺を抱きかかえたまま何事もなく着地するなんて。
少なくとも普通の人間ができる技ではない。おかしい、おかしい。
多少落ち着いた脳が無意識に周囲の情報を整理する。
洞窟のような場所。マグマ。切り立った岩。咽返るような暑さ。
俺はこんな場所に見覚えはないから、やっぱりこの男が何かしたのだ。
でも亮の部屋から俺の意識はずっとここにある。瞬間移動のような芸当を、どうしてやってのけた?
「死なれると面倒だ…動くなよ」
仮面の男は俺の体を、透明な床に仰向けに横たえた。つう、と額に汗が伝うのを、人ごとのように感じた。
男は四体をほおる俺の横に屈んだまま、動こうとしなかった。俺を見下している。
仮面越しに俺を見ている。俺は居心地が悪くて、酷くだるい体を起き上がらせようとした。
「…!」
しかし、いくら腕に力を入れたつもりになっても、体が起き上がることはなかった。
体が緊張で動かなくなっているのだとばかり思っていたが、どうもそれにしては体が言う事を聞かない。
先程まで動かせていた指先まで、動かない。俺は仮面の男を睨みつけた。
「動くなと言っただろう?」
俺のその視線に気が付いたのか、仮面の男は口元を歪ませた。
そして男は俺に手を伸ばしてきた。振り払えない。胸の辺りに手のひらを置かれ、グッと体重が掛けられた。
「…イ"ッ…!っうあぁ…ああっ!」
途端焼く様な内側からの痛みが体を支配する。悲鳴が上がるのを抑えられない。
体を捻って動かすことすらままならない、目尻を涙が伝う。
数秒か、それ以上たって仮面の男は満足したように笑うと、俺から手を放した。
俺は肺に空気がどっと流れ込むのを感じつつ、咽ながら荒い息を繰り返す。
「あばら骨が折れている。変な気は起こさない方が良い」
「はぁ…はぁ、…っ!」
仮面の男はそれからじっと黙りこんだ。指一本動かせない俺をひたすら見下ろしているようだった。
上手く動かない自身の体に、表情がはっきりしない仮面の男に、得体のしれない恐怖を覚える。
男から距離を置くことすらかなわない。何度も手のひらをひっくり返すこの男は、一体何を目論んでいる?
俺ができるのはただ、相手を睨みつけるように注視することぐらいしかなかった。
酸素の足りない脳が悲鳴を上げている。割れそうな頭痛が起きる。
それでも意識だけはここにあって、もやもやと霞むどころか、逆にはっきりとしてくる。
そんなふうにしてしばらく睨みあっていたら、仮面の男が突如ハッとして、息を飲んだ。
何を思ったのか俺にぐっと顔を寄せてくる。俺は驚きのあまり硬直した。
「…そうか…貴様は…!――くく、ようやく、この時が来たか…」
男の手が伸びてきて、骨ばった指の腹が鎖骨を、喉仏を、顎を、移動していく。
首をするりと撫でられたのを認知して、俺は息も絶え絶えに身震いをした。グッと息が詰まる。
視界の隅で男の首に下がったペンダントが不気味に揺らめき、鈍く光を放っている。
仮面につけられた、濁った水晶の目が俺を貫いている。
妙にクリアになった五感が、この場の異常な雰囲気と事態を俺の脳に焼き付けてくる。
「貴様のその命、私が握っている事を忘れるなよ」
男はそう吐き捨てるようにして告げると、顔をあげ、俺の傍らから立ち上がった。
その手にはいつの間にか、紐のちぎられた七星門の鍵が握られていた。
(異常の綻びは繕われることもなく、裂け目から零れ出した思考は止まることを知らない)
(感じる恐怖が今を現実と思い知らせてくる)