ブルー寮のレストラン(食堂ではない)にお邪魔させてもらったのだが、非常においしかった。のだが、問題があった。
俺は無難に和風定食を頼んだつもりなのに、出てきたのは豪勢な懐石料理だった。
亮は普通に寿司を注文していた。俺の後ろの席に座る生徒はステーキを食べていた。
小ぶりなブリの照り焼きをつつきながら、ふと俺の頭をよぎった料理があった。
レッド寮の白米と質素なおかずが、なぜだか無償に恋しくなった。

然らぬ遭遇と被る不遇


俺は目が覚めてしまっていた。
目を閉じても意識は完全に眠気とは無縁の方向へ向かっていた。
丑三つ時の今。隣のベッドで寝ている亮を起こしてしまうのも気が引ける。
だから俺はベッドであおむけの状態のまま、ぼんやりと天井を眺めていた。

月明かりが足下の窓のカーテンの隙間から零れてきている。
風でも吹いているのだろうか、ビュウという音が静かな室内でやけに耳についた。
しばらくあって俺はもう一度寝返りを打った。ちょっとだけ眠気が戻った気がした。
意識がまどろみ始めたので目を瞑ろうとした時、不意に影が映った。

「(なんだ、あれは)」

俺は驚いた。船を漕ごうとした意識がまた覚醒する。天井の影が動いている。
先程見ていた時とは、明らかに形が違って、忙しなく動いていた。
カリカリという音が窓辺から聞こえている。心臓の音が煩くなってくる。
風の音なんかじゃない。…人か?でも此処は2階のはずだ。だったらどうして。
冷静さを欠いた脳は、俺の上半身を飛び起こすには十分すぎるほど動いていなかった。

起き上がった俺は窓を見た。人影は見えなかった。じっと目を凝らす。それでも何もない。
カーテンと窓。それだけ。俺は暫く固まったように見続けて、ややあって瞬きを意識的に繰り返した。

「(……気のせいか)」

詰まっていた息を吐いた。目の辺りをぐりぐりと指の腹で擦っておいた。
なんだか上半身だけ起こしているとどんどん眠気が消えていく気がする。
いっそのこと起きてしまおうと思い、俺は一度大きく伸びをして、スリッパを履くためにベッドから足を下ろした。
腕に力を込めベッドから離れ、完全に体を立たせた時、俺の目に影が映った。

「くくく。気の所為などではないぞ」

酷く黒い影はテナーアルトの声を出した。顔を上げて相手を見たとき、俺は声を失った。
そこにあるのは狂気だった。ギラギラと焼きつけるような眼光が、俺の肌に鳥肌を作った。
俺は水を失った金魚のように、口を開けたり閉じたりすることしかできなかった。
今だ闇に慣れない自分の目は、影を人型に象る程度で、まるで視力を失ったようだった。

「そうだ、それでいい…お前が叫んだ瞬間、私はお前の首をかっ切っていただろうな…」

喉が引き攣ったように動き、無意識に唾を飲み込む。俺は此処で完全に口を閉じた。
そして視力が一気に戻ってきたように感じた。影は男だった。
背丈はさほど変わらなかったのかもしれないが、俺にはとてつもない大男にしか見えなくて、萎縮した。
仮面から覗く口元が歪んでいる。自分の首に下げられたニセモノの鍵が重たく感じる。
自重で…何処が、とはいわないが千切れ、床に落ちてしまうんじゃないかとさえ思うほど、俺は恐怖を感じていた。

「さて、お前は此処に居て、此処で眠っていた。そして目が覚めた。どうして目が覚めたかわかるか?いや、お前には一生分からないだろう――なぜなら文学的なこんな月の美しい夜、お前の所に私が、来てしまったからだ」

矢継ぎ早に話す仮面の男は弁が立つようで、突如なにやら小難しく聞こえる言葉を並べ立てた。
それは俺を混乱させるには十分なもので、その後の相手の発言をより注意深く耳に入れようとするのは仕方のないことだった。
男はそれが狙いだったのである。泳ぐ俺の視線は、彼をさらに得意気にさせたに違いない。

「分からないのか?ハッ…なら、特別に教えてやる」

男は音もなく動いた。そして次の俺の瞬きの合間に見失った。
そして次の瞬間、風が自分の右手を通り過ぎるのを感じた。俺は振り返った。

「この青年の命か、お前の命か、」

俺のベッドの向かい側にあるベッドで眠る彼、亮の首元には鈍く光を放つ刃。
あと数ミリで刺さってしまいそうなほど…いやもしかしたらもう刺さっているのか。
それを握りしめてこれ見よがしに俺を見上げてくる仮面の男の舐めるような視線に、戦慄を覚えた。
動けなかった。影を縫われたピーターパンのように、俺は指の先さえも動かせなかった。

「選ぶのはお前だ、
「(コイツが、セブンスターズ…!)」

本能が悟る。仮面の男はセブンスターズで間違いないのだと。
俺はどうしたらいいか分からなかった。こういう非常事態に遭遇したことがなかったからというのが正しいかもしれない。
かき回された頭がはじき出したのは助けを呼ぶことだったが、仮面の男は絶えず此方を注視している。
無意識に後ずさる。震える体のまま、俺は首の辺りをまさぐって、人肌程のぬくさのニセ鍵を握りしめた。

「私に大人しくついてくればこの男の命は見逃してやるが、」

セブンスターズの男はそこで言葉を切った。言うまでもなく、無言の圧力に違いはなかった。
仮面の男は、思案顔で硬直する俺を見て何を思ったのか。冷たそうな金属の仮面の下で、クツクツと笑っていた。
亮の上から刃物の光が消えた直後、視界の隅でカーテンが揺れる。男がまた、俺の視界から消える。

「さあ、どうする?」

俺に選択肢がないのを、この時の俺は嫌という程思い知っていた。


(こういう時に限って意識というのはハッキリと保たれるものだ)
(極度の緊張と興奮に置かれた脳は睡眠を放棄する)