あれから3日経って、俺は深く考えることを止めた。
これ以上悩んでいても現状が変わることはないと、自分の中で一区切りつけることができたというのがある。
"此方の世界"に来てしまった、という事以上に理不尽なことはないのだから、これは本当に些細なことなんだ。
そう思わないとして、この世界で俺は一体いくつの荷物を抱え込んで生きていかなければならないんだろう。
招かれざる厄介もの
翼が生えていたという引き攣った痕の辺りを、自分で自分の体を抱くように、右手でそっとなでる。
布越しにもわかるその痕は、俺が想像していたよりきっちりと閉じられていた。
一刻前までここに翼が生えていたなんて、にわかには信じられない。
鏡越しにはっきりと見たそれは、自分自身を疑いたくなるほど非現実な、美しい純白の翼だった。
今思い出すだけでも鳥肌が禁じえない。それでも俺の意識はこの肉体にある。
いっそ夢だったとしたらどれだけ良かったのだろうか、そんな問いも、一体何回目になるだろう。
何度そう願ったって、神様は俺をこの世界から掬う事も、元の世界へとつまみだすことさえもしてくれなかった。
四角く切り取られた窓枠に綺麗にはまっている空は今日も青い。何も変わらない。
コンコン。
校長室に備え付けられた来賓室の窓際に佇んでぼんやりとしている俺の耳に、ノックの音が飛び込んでくる。
「先生」
俺がノックの音へと意識を向けるのと同時に、扉の開いた隙間から顔を覗かせたのは鮫島校長だった。
「どうぞ、こちらへ」
校長は、校長室への入室を俺に促した。俺は唾をごくりと飲み込んで、深く緩やかな動作で頷く。
自分の足裏から伝わる規則的な振動。歩いている時に感じる独特の視界の揺れ。
変な所に力が入る。緊張で体がガチガチになっているのが、自分でもよくわかった。
一歩またげば、部屋から自分の体が出て、校長室の様子が露わになった。
「!」
十代の驚いた声を皮切りに、部屋にいる全ての人間からの視線を一斉に浴びる。
部屋に居たのは全員見知った顔だった。俺は無意識に胸を撫でおろしたが、これには深い訳がある。
遡ること数時間前、海馬先輩からかいつまんだような話は聞かされていた。
体術とか護身術のノウハウを知らない俺に、警護を何人かつけようという感じの話だった。
やけに深刻そうだったから、俺が真っ先に想像したのは黒スーツを実に纏う屈強な感じの外人ボディガード。
変な先入観の所為で握りしめていたらしい手のひらが、閉じていた口元が、緩んでいく。
「も呼ばれてたのか」
「…まぁ、そんな所さ」
驚いた様子の亮に柔らかく笑って返せるくらい、俺は気分が軽くなっていた。
校長に促されて、部屋の中央に置かれた大きなデスクの横に立たされる。校長はデスクについた。
一列に並んだ皆の顔についた二つの目が全部、俺に集中しているのがわかった。
「校長!なんでただの事務員がここにいるんです」
開口一番俺を指差し、憤ったように啖呵を切ったのは万丈目だった。
彼は納得がいかないのだろう。前、俺がデュエルができないのを知っているはずだから、なおさらだ。
万丈目!十代が咎めるように声を上げた。元々隣り合っていた2人ではなかったが、三沢を挟んで彼らはいがみ合う。
一触即発の2人に挟まれた三沢は大変困っている。俺の後ろ手から溜息が聞こえた。
校長が流れた空気に拍車をかけるように、重たげに口を開いた。
「彼はセブンスターズに、三幻魔のカードと同様要求された人物なんだよ」
どよめく声が遠くに聞こえるようだった。視線が十人十色、鋭いものから困惑のものまで、全てがまた俺を打ち抜く。
俺は受け止められる自信がなかったが、それでも逸らしてはいけない気がしていた。
顔を上げ続けていると、嫌でも全員の顔と対面する。その中で大徳寺先生だけは、なぜか落ち着き払っていた。
感情の色が見えない。俺は素直にそう思った。彼の顔は普段と変わりなくて、それが逆に目を引いた。
視線が合わないのは、彼が俺のほうを見ていないからだろうか、それとも――。
「…が、どうして?」
純粋な驚きを含んだトーンの高い声が、大徳寺先生と亮の間にいる明日香から発される。
この場に居る誰もが想っているであろう疑問は、俺の耳にもじんわりと浸透していく。
俺は笑った。苦笑いに近かったが、俺もまったくその通りだと思う。どうして俺なのだろう。
どうして、どうして、どうして。疑問のスパイラルは脱出口が見えないまま、今14回目の夏を迎えようとしている。
静寂が校長室に落ちる。いがみ合っていた2人もいつの間にか黙って此方を見ている。
ちらり、鮫島校長に視線をやれば、彼は口の前で祈るように組んでいた手を解いた。
「…ある文献の中に、三幻魔に深く関連した天使の話がある」
そう言葉を切ると、校長は机から小ぶりな箱を取り出した。
全員の目が、その少し古ぼけた革製の箱にいく。コトリと、机と接触した音がやたらと耳につく。
誰もが鮫島校長の飛躍した言動に首を傾げた。その本意を知るのは、恐らくこの部屋には俺しかいない。
「それ、聞いたことがあります。天使は罪を照らす白き光を纏い、かつ、唯一三幻魔と対等の力を持つ存在であったとか…」
言いにくそうに淀む校長に痺れを切らしたのかそうでないのか、三沢がやや早口に説明をする。
俺は目を見開いた。彼が知っていた事に対する驚きと、なぜ知っているのかという不審が脳裏をよぎった。
「よく知ってるね、三沢くん」
「…ええ、少し」
感心したように微笑んだ校長の声色は優しい。しかし三沢は笑い返すこともせず、ただ表情を硬くするだけだった。
「三沢くんの言う通りだ。そしてセブンスターズは、三幻魔だけでなくその対になる力も欲しているんだよ」
校長の言葉に各人思うことがあるのか、それぞれ目を合わせあったり、目線を落として考え出している。
その中で十代は理解が遅れているらしくて、落ち着いた周囲とは対照的に、首の後ろを掻きながら俺と校長を交互に見ていた。
「え〜っと?それじゃ、は…」
「その文献の話にでる天使とやらは、俺が持つ翼と同じものである可能性が高いんだ」
若干混乱した様子の十代の言葉に被せ、俺は校長の前に置かれた箱を自分の傍へ寄せて、机の上で蓋を開く。
皆の視線を一手に受けながら、パズルのように配置された7つの鍵を撫でるように触った。
途端に皮膚を引きちぎるような激痛が、背中に走る。俺は直立のまま顔を下げ、目を閉じ俯いて、それに耐えた。
び、という布独特の破れる音がしたかと思うと、ぶわっと風が室内を駆ける。
息を長く、出す。吐き気に似た痛みが頭を揺さぶる。俺は大きく首を振って、震える瞼をこじ開けた。
視線の先には床と自分の影があって、その人影には大きな双翼がくっついていた。
誰かの息を飲む音がした。でも誰も言葉になるような言葉を放つことはなかった。
「…そう、だったんだ」
ただ一人、十代が酷く納得した様子で、ぽつりと零すのが静かに耳に入ってくるのがわかった。
彼の顔には、驚きでも悲しみでも憐れみでもない、俺の知らない感情が浮かんでいた。
(肌をじりじりと焼きつけるような痛みは未だ継続中、俺の意識の放棄を拒んでいる)
(所詮俺はこの世界の人間ではない)