おぼつかない足取りで出ていった校長を連れ戻したものの、彼は腑に落ちない表情を続けている。
上座に座る鮫島校長を右手に、正面に海馬先輩。気まずいことこの上ない。
校長が運んで来てくれたお茶はすっかり冷めてしまっている。カラカラに渇ききった喉を潤すのには少し冷たかった。

ナイトメアは終らない


「すみません。てっきり、そういう仲なのかと早とちりしてしまいました」

年になると柔軟な考えができなくなるもんですな、と若干の自虐を織り交ぜながら、鮫島校長は微笑んだ。
皺の深いその笑顔には、一見他意がまったく感じられない。俺は心の中で下を巻き、両手を上げ降参した。
無自覚ほどタチの悪い人はいない。それを故意に演じるのなら、なおさらだ。自分の勘は後者を指し示そうとしている。
というか彼は、若干楽しんでいないだろうか。一度そう感じると、もうそのようにしか見えなかった。

「その…うん、多分第三者からしたら、勘違いするのも無理はないですよ。ねえ!先輩!」

この狸ジジイ!と、罵ってしまいたい気持ちを誤魔化すために、隣に座る海馬先輩に助けを求めた。

「ふん」

澄ました顔の先輩は、俺の悲痛な叫びに似た救助要請を一蹴してくださった。
一度押さえつけた怒りがふつふつとまた沸騰を始める。この事態の諸因は誰だと思ってるのだ、と。
勘違いしたのはあの狸ジジイだ。悪いのは俺じゃないというのになんで俺が弁明しなくちゃいけない。

「…ちょっと、先輩もちゃんと言ってくださいよ」

自分の雇い主で社長である海馬先輩に言った後で、俺は若干後悔した。
これで機嫌を損ねて、即日解雇。なんて、普通のことがあり得そうで恐ろしいんだ。
しかし、それはそれでアリなんじゃないだろうか。またあのバイト三昧の生活に戻るだけだ。
肉体より10年近く長生きしている精神は、多少逞しくなってくれている。
なるようになるもんだ。平常心平常心。自身に言い聞かせて、無意識に握りしめた右手を緩めた。
心に若干の余裕が出来た俺は、向かいの先輩が足を組みなおしたのを視界に入れた。

「俺は構わん」
「は?」

返事は予想の斜め上を突き抜けた。思わず聞き返す形になってしまう。

「俺の信じる道の上においては貴様など何の影響もない」
「…………はぁ」

気の抜けた、ため息にも取れる声を出しながら、俺はこの男に対して不平不満を告げた所で何も変わらないことに気が付いた。
彼はこういう男だと身構えていないと、てんでダメなのである。
この先輩と変な縁で旧知の仲になっている以上、それは改変の余地がない。
一生…いや、この響きはずいぶんわざとらしく重く聞こえるが、彼との関係はこんな風に続いていく気がする。

俺が意識を逸らしているうち、社長は俺を意に介する様子もなく、淡々とした表情で本日の用件を告げた。

「鮫島校長、例の物はあるか」

木製のデスクに腰かける校長は、先輩の言葉を聞いて深く頷いた。
俺も意識をそちらに向ける。机の引き出しから校長が取りだしたのは、普通のものより一回り小さな真白い紙。

「こちらに」

此方に見せるように掲げたそれを手に、彼は居心地のよさそうな背もたれ付の椅子から立ち上がる。
自分達の座るソファーに近寄ってきたかと思うと、それを先輩に差し出した。
そこでようやく俺は、その白い紙が封筒の形をしていたことに気が付く。
先輩はごく自然な動作で受け取り、その封筒から綺麗に三つ折りされた紙を取り出し、開いて黙読を始めた。
俺の位置からは手紙に何が書かれているのか分からない。読んではいけない物なのかもしれない。
この場にいる自分が場違いな気がしてならない。ガラス張りの校長室の窓から見える海と空の、その鈍い青に視線を移す。
というかそもそも、どうして俺は此処に呼ばれたのだろう?
もやもやとした雲が広がっている。夕方からは晴れないと言っていた今朝の天気予報士は正解だった。

「セブンスターズと名乗る者たちから、三幻魔のカードを渡せと」

視線を向けると、校長はデスクの傍らまで下がっていた。
その場で立った状態のまま、目を伏せて顔を俯かせ、言葉を紡いでいる。
酷く沈んだ声色からは、疲労ともとれるものが滲んでいるように見えて、俺は驚いた。
彼の人なりをよく知っている訳ではないが、それでもこの憔悴ぶりは俺の目にも異常に映った。
海馬先輩が今持っているその手紙も、一つの原因になっているのだろうと、ぼんやり推測することができた。
そして俺は、彼らが何を言っているのか半分ぐらいしか理解できていない。

「貴様の学校の生徒はこの程度の試練も乗り越えられんほど軟弱なのか」
「いえ!ここの生徒は皆優秀です。ですが…」
「ならばかえり撃ちにすればよかろう」

ただ、穏便に済ませられることでないのは、彼らの話ぶりから痛いほどよく伝わってくる。
先輩は少し不満そうに、ずいぶんと上から目線で容赦なく校長に告げる。
鮫島校長は俺より先輩より遥かに年上なのに、なぜかこのやり取りを見ていると、校長が部下に見えるという不思議。
なんだか先輩が珍しく社長みたいだ。…いや、彼は確かに社長なのだが、うん、まあ、これはどうでもいい。

「しかし、相手が要求しているのは三幻魔のカードだけではないようなのです」
「何か問題があるとでもいうのか」
「はい。その手紙の、使者についてなんですが…」

話を聞けば聞くほど、俺は関係がない気がしてきた。退出した方がいいのかもしれない。
2人とも今は黙っているので丁度いい。意を決して退室の意を伝えようとした。
瞬間、何故かは知らないが先輩にぎろりと睨まれた。よく見れば校長まで、俺の方を見ているではないか。
一体なんだというんだ。俺は口を開きかけたマヌケ顔のまま硬直する。

「…なるほど、か」
「はっ?」

そしてさらに、先輩から俺の名前が出てきたことで、俺の脳味噌は混乱を極める。
先輩が大きく舌打ちをして、俺から顔を逸らす。その時の表情はさながら般若のようだった。
ぐしゃっと、先輩の手が手紙を握り潰す。掌がうっすらと白くなるほど、力強く。
とっくに考える事を放棄していた脳は、先程の先輩と校長のやりとりを曖昧なものにしている。
そんな状態で突然話題を振られても、まともに話を合わせられる訳もない。

「手紙に、"光の使者を寄こせ"と書いてあったのです」

見かねたらしい校長が、俺に助け舟を出してくれた。しかしそれは逆効果で、俺をさらにパニックへと導いていく。
だからなんだというんだ。相手の要求だとかいうカードっていったら、デュエルの話で、俺はデュエルをやらないわけで。
なら、俺は関係ないじゃないか。関係ない。なのに校長も、先輩も、俺に視線を寄こしてくる。
俺の言葉を待っている。言外に急かしている。まるでお前も関わっているのだと言うように。

「…それ、俺じゃないです」

まともに考えることができないほど真白な頭のまま、否定する言葉を、どうにか紡いだ。
しかし返ってきたのは、感情の取りにくいあまり抑揚のない静かな先輩の声だった。

「お前は文献の内容も忘れたのか」

よもや忘れていまい。彼はなにか喉に引っかかったような表情になると、口を閉じた。
見たことのない表情だった。その目には確かな怒りがあるが、それとは何か別の感情が渦巻いている。
何時もなら自信に満ち溢れた様子の海馬先輩が、なぜか別人のように見えた。心臓が跳ね上がる。

「…お、ぼえてます」

震える声は、脳の動きとは反対に勝手に会話を成り立たせる。
人違いだと言いたい。言いたいのに、なぜだろう。心がぐらぐらと、不安定に揺れる。
顔を俯かせた先、無意識に握りしめていた、あの資料。その上に踊る膨大な文字列が、断片的に目に飛び込んでくる。
その一文字一文字が、俺とデュエルの間を何か見えない糸か何かで、がんじがらめにしているようだった。
もしかしたら、これは逃れられないのかもしれない。そして拒否も逃避もできないのだろう。
あの時と同じだ。気が付いたら自分の預かり知らぬ所で、全て事が整っているのだ。
なにもかもがその通り。まるで悪魔が仕組んだレールの上を、歩かされてるような気分に陥る、そんな所まで。

「面倒なことになったな」

先輩が溜息を吐くように呟く。それは一体、何に対しての投げかけだったんだろうか。
ガラス越しに映る空はすっかり曇り模様で、隙間なくびっちりと鉛色の沈んだそれが、水平線まで続いている。
夕焼けに染まる茜空が顔を覗かせることはなく、時刻はもうすぐ、5時になろうとしていた。


(怖いと思う事がこんなにも心を削ることだったのを、すっかり失念していた)
(俺が無知だったら、何も知らなければ、知ったまま"ここ"に来なければ、こんな風に戸惑う事もなかった?)