1週間、大徳寺先生と色々な文献を漁った。
それでも結局それらしいものは見つからず途方に暮れていた矢先、携帯電話のランプが光った。
届いたメールの差出人は、俺をこのデュエルアカデミアに就職させた因縁の先輩だった。
口承文学の片鱗に触れる
端午の節句の、2日前のこと。
アカデミアの一角にある来賓室で久々に対面した海馬先輩が俺に押しつけてきたものは、1枚のA4版紙だった。
視線で自分を睨んでくるということは、おそらくこれを読めということなのだろう。
紙特有の質感を手に感じながら、無言のまま俺は黙って視線を落とした。
そこに書かれていたタイトルを見て、俺は息を詰まらせた。
口承文学の一部、という記述のところに書かれていたのは、光や、翼という文字列が見られる文章だった。
慌てて文字を追えば、そこには俗説ともとれるような御伽話が並んでいた。
『光と闇は対である 万人は心に有といふ闇を持つ 使徒は心に無といふ光を持つ』
『かの使徒は罪人より餞別せらる 汝の心の隙間に種を埋め 根を生やす 呪縛を持ち 枷を持ち 偽りの翼を持つ』
『かの種はまやかしの如し光にあり 天人の如し純白にあらず 闇を食らい生きる 悪の根源にあり』
『かの意思を持たぬ白き翼とは すなわち死の象徴である』
暫く文章を吟味したのち、俺は顔を上げ、優雅に足と腕を組みソファーに座っている先輩を見つめた。
「…先輩。これ…そう言うこと、ですよね」
とどのつまり、俺は厄介な"種"とかいうものに取りつかれて、翼が生えるようになったと。
この昔話は俺のことを指しているのだろうと憶測できる。
俺が一通り目を通して、言外に思った事を伝えれば、彼は甚く上機嫌に口元を歪ませた。
「喜べ」
誰が喜ぶか。
俺は心の中で盛大に突っ込んだ。否定したい気分でいっぱいだが、彼は俺にとって先輩であり、上司なのである。
これほど厄介なことはない、俺は口を真一文字に結ぶことで感情を押し殺す事に成功した。
もう一度視線を落として見てみるが、文章が変化しているわけもなく。
プライドの高い先輩のことだから、この情報は多分信頼できるソースがあってのものなのだろう。
それにしても本人の意思とは別の次元で起きている気がする。自分からしたら、たまったものではない。
実害の伴う御伽話など聞いたことがない。俺は脳の味噌が冷えるのを待って、口を開いた。
「……あの、ちょっとコレ、不吉すぎませんか」
「ふん、俺の知ったことではない」
「…そうですね、」
相手の事より自分の事を最優先し、行動する。先輩はそういう人だったのを再認識する結果となった。
また幸せを一つ、ため息と共に逃がす。ついでに、前のめりになっていた体をソファーの方に倒した。
気持ち目が疲れた気がして、眉間の辺りを右手の親指と人差し指で軽くつねっておいた。少し痛かった。
若干の沈黙の中、俺も相手も動かない。来賓室に置かれた振り子式の時計が3時を指す。
射しこんでくる日差しが暖かい。
不幸だと嘆くよりも先に、前から常々、心の何処かで自己保身を思っていたのを、意識する。
こういう風に自分の預かり知らぬ所で事態が進んだりするのは、"この世界"に生きている時点で決まっていたのかもしれない。
悪魔か何かの気まぐれで、俺はこんなものを抱え込む羽目になって。そんな俺を見る悪魔はさぞ愉快なことだろう。
やりきれない怒りと諦めが心の中を渦巻く。自分の体が異型になったのは、自分が一番よくわかっていた。
あの時の視界の隅に見えた白は、確かに翼だった。翼が出たのを、自分はあの時確かに認識していた。
だからこそ、これ以上アカデミアには居られない。この答えが頭の中ではじき出されるのも無理はなかった。
「…あれ以来翼はどうだ」
そうして意識を埋没させていた所為で、先輩が声をかけてきたのにも反応を返せなかった。
耳に音が届いて、それを声だと認識してようやく顔を上げることができた。
相変わらず仏頂面の先輩は何を考えているのかまったくわからなかったが、でも確かに彼は此方を見ていた。
「去年の10月以降、翼は出たのかと聞いている」
間抜けな顔でもしていただろうか。彼は少し眉間に皺を寄せ、声を荒げるわけではないが、多少不機嫌そうに言葉を紡ぐ。
俺ははっとして、顔色をうかがうまでもなく、慌てて首を縦に二三度振った。
「ならば背中を見せろ」
息をつく暇もなく彼は俺に問いをする。しつこいようだが、彼はこの発言の際、機嫌の悪い顔をしている。
俺の理解の範疇を超えたそれに、俺はしばし思考を巡らせたものの、結局意図が分からず疑問を声に出すしかなかった。
「…あの…どういうことでしょう」
一瞬、他人から見たら何の変化もないように見えるが、彼の眉間に若干皺が入ったのを俺は目撃した。
視線に軽い軽蔑を乗せて俺を見下すその顔にイラついたのは仕方のない事だったと思う。
長い足を見せつけるように組んでいたのをといた彼は、座るソファーに傾斜していた体を真直ぐに伸ばす。
わざわざ姿勢を正して何を言うのかと、俺は無意識のうちに身構える。
「貴様に興味はないが、翼には興味がある」
やっぱり理解できない。この男の発言の殆どが、理解しようとしても常人である俺にはそもそも不可能なことだった。
諦めに似たやりきれない思いが燻っている。
どうしようもないまま、俺はそこで即座に、流れに身を任せる以外の選択肢を消去した。
「…左様ですか」
「早くしろ、もたもたするな」
声色に僅かな期待の色がうかがえる。そこで俺はあることに気が付いてしまった。
この翼があるということの特異性は、人の見る目を一変させることに。
得体のしれない恐怖だ。この先、この目と、一生付き合わなければいけないものだった。
今まで出会った事のない、異物を排除しようとする人間の共通意識が、怪物のように大口を開け俺に襲いかかる。
俯いた顔を上げられない。ソファーから中途半端に立ちあがって服の裾にかけた手が震えている。
先輩が訝しんでいる。見なくても分かった。動かないと。何か話さないと。何か――。
冷静さを欠いた脳で言葉を組み立てるのは無理だった。そして先輩が立ち上がったのにも、気が付けなかった。
視界は、真白な床と、自分の足とその影で形成されていたのに、そこに黒い靴の先端が侵入してきた。
そのコントラストに息を飲んだ瞬間、両肩を押されソファーに逆戻りする。力を入れ過ぎていた体は、あっけなく崩れ落ちる。
追いかけるように彼も俺の左に座った。俺は反射的に、蛇に睨まれた蛙のように萎縮した。
俺はくしゃくしゃになったみっともない顔を見られたくなくて、彼のいる方を向かなかった。
いや、むしろ、彼の顔を見たくなかったのだ。1人の人間として対等に、彼と会話できそうになかったのだ。
そして同時に憎かった。普通である彼と、異常な俺。その対照が、埋められない決定的な溝がそこにはあった。
一度口を開いたら、いくらでも、声がかれても不平不満を言える気がした。
彼は俺を見てどう思うのだろうか。聞けなかった、いや、聞けるわけがなかった。
心の中で渦巻く激情を処理する方法がわからない。作業服の裾を握りしめた拳が、布を引きちぎりそうだった。
こんなにも自分が感情を抑え込んでいたのを、俺はずいぶん長い間無視し続けていたらしい。
20になった体も、精神的に30を超える心もあるのに、本質的な所では何一つ成長していなくて、そんな自分を不甲斐なく思った。
来賓室に掛けられた時計が、11時を知らせる鐘を控えめに鳴らした。
そんなふうに葛藤している俺を見て、先輩は何を思ったのか、突如俺の背中に腕を回し、肩を抱いた。
俺の体が大げさに揺れたのに、彼は厭う様子もなく、滅多に吐かない台詞を口にした。
「…いい。お前は、もう何もしなくていい」
何時もだったら尋常でないことだと騒いでもおかしくは無かったのだから、この時俺は相当弱っていたに違いない。
彼のそんな簡単な言葉が、背に添えられた掌が温かくて、俺は緩み掛けの涙腺を抑えるために一層顔を落とした。
手の震えはいつの間にか止まっていた。
「失礼。お茶の準備にてこずってしまいましてな…」
そしてタイミングを狙ったかのように、この来賓室の扉が開いた。
急須や湯呑の乗っているお盆を片手に入ってきたのは鮫島校長で、彼は口元に笑顔を湛えたまま此方に視線を向けた。
先程まで、ほんの少し前まで、普通に喋って動いていた校長が、凍らされたようにその場で硬直した。
俺は校長が入ってきた瞬間から目で追いかけていたが、その固まり方はあまりにも不自然だった。
「…」
何とも言えない、むしろ言葉にできないような微妙な空気が来賓室に充満する。
俺の真横にいる先輩の腕が、するすると離れていくのを服越しに感じて、俺は先輩の方を見た。
先輩も、微妙な表情をしていた。この部屋の雰囲気を吸い尽くして体現したような、そんな顔をしていた。
俺も海馬先輩も言葉こそ発しなかったが、この時確かに何かのやり取りをした気分になった。
「…」
ややあって、俺は思い至って僅かばかり赤面――なんてするわけもなく、それよりもむしろ頭を抱えたくなった。
鮫島校長の硬直と、先輩の腕の離れる感覚、そしてこの状況全てがヒントだったのだから。
開きかけた扉の枠から微動だにしない校長。彼の目は、何かを悟ったように落ち着いていた。
「…失礼、しました」
この場で一番早く硬直から回復した校長が、壊れかけのロボットのような片言の言葉で去っていく。
俺が大慌てで立ち上がって、出ていった校長に必死に弁明をしている間、
海馬先輩は柄にもなく肩を揺らして笑っていたのを俺は後になって知ることとなる。
(校長!鮫島校長!誤解です!誤解ですから!お願いですから逃げないでください!)
(ああ、なんて愉快な。酷く歪んだその男は心の底から嗤った)