その後、どこから入ってきたのか知らないが、大徳寺先生がお茶を入れてきてくれた。
古めかしく欠けている湯呑には緑茶。世辞ではなく本当においしかったので驚いたのは此処だけの話だ。
そして一緒に出されたお茶受けは、十代と翔の壮絶な争奪戦に使われた。
2人の様子を苦笑して眺める先生を尻目に、俺が首を傾げるのも無理はなく、むしろ当然であったと言いたい。
崖越しに見たものは
夕食の香りが漂うレッド寮の食堂は今、男、男、男で埋め尽くされている。
春先の温かさを超え、蒸し返るような熱気が籠もるのも仕方のないことだった。
食堂の雰囲気と対照的にメニューは質素で、山盛りの白米に味噌汁、ひじきの煮物にきゅうりの浅漬け。
それから申し訳程度に、二切れのメザシが添えられているだけだった。
今まで食事といえば職員用の食堂やトメさんからの施しを貰っていたから知ることもなかったのだが、
此処レッド寮の夕食は、育ち盛りの生徒達にとっていささか少ない量であることは素人目にも理解できた。
ただ一つ長所を上げるなら、釜で炊かれたというお米がたいそう美味しいという事ぐらいしかなかった。
食事を終えた生徒がぞろぞろ帰る中、俺はゆっくりと咀嚼して最後のご飯を飲み込んだ。
できるだけ三角食べを心がけたつもりだったが、おかずの減りは食べる本人が驚くほど速かった。
箸を置き、手を合わせて感謝の辞を唱えたら、後ろから耳慣れた声がかかった。
「先生、すみませんにゃ。こんなものしかなくて」
「いや、そんな!おいしかったですよ」
大徳寺先生はとても申し訳なさそうに謝るものだから、俺は大慌てで、なんとか感想を伝えるのがやっとだった。
今は文句こそ言わないが、先輩の顔を思い浮かべて、頭の中で思いつく限りの罵詈雑言をぶつけておく。
先輩の"オシリス"嫌いがここにまで影響を及ぼしていることに頭痛すら覚える。
ため息をついた俺を見た先生が、俺の食べ終わった食器類を持ち上げた。
「今日は先生も疲れただろうし、食堂の隣に一室別に用意したから、そっちで休んでほしいのにゃ」
「先生、何か手伝いますよ」
「いいのにゃ、ゆっくりしてほしいのにゃ〜」
「いや、でも。食器片づけるのぐらいは自分でできますよ」
「ほらっ、先生、まだ病みあがりにゃんですから…」
先程までレッド寮生徒でごった返していた食堂を、先生に半ば追い出されるように外へと出た。
振り返ると大徳寺先生が、机に幾つか残ったお椀などを忙しなく片づけているのが見える。
俺はそっと、開いたままになっていた引き戸を、音をたてないようにゆっくり閉めた。
「…ふう」
溜まっていた息をつくと、無意識に体に入れていたらしい力が緩んでいった。
春先独特の、冷たい風が自分の頬を撫ぜていったことで、室内と外の気温差がどれだけあったかを体感する。
引き戸にかけたままだった手を放し、食堂の隣にあると言われた、自分に宛がわれた部屋を探そうとした。
「!」
何処からか自分の名前を叫ぶ声がして、俺は無意識に肩を揺らしてしまった。
夕食後の時間帯、すっかり暗くなってしまっている周囲を見渡せど誰も居ない。
幻聴かと思った矢先、もう一度同じ声が、今度は上から聞こえるのが分かった。
「〜」
声の主は十代だった。
レッド寮の二階部分、部屋と部屋を繋ぐ通路の、ずいぶん頼りない柵から、十代は体を乗りだし此方を見降ろしていた。
傍から見たら今にも飛び降りそうなその体勢に俺はぎょっとした。
「そっち行くからちょっと待ってて」
軽い感じで彼は体を足場がある方へ戻し、その通路を横につっきって、端にある階段を飛び跳ねるように降りてきた。
それは数秒のこと、あまりにあっという間だったので、目の前に十代が来た時も一瞬反応が遅れてしまった。
「行こう」
気が付いた時には既に、やけに笑顔が眩しい十代に手をがっちりつかまれて、引っ張られていた。
走りだした所為で上手く言葉を紡ぐ事も出来なかったが、それもほんの少しの間。
十代の目的の場所は、俺が思ったより近くにあった。
「ここ、」
オシリスレッドの寮の裏手は、切り立った崖になっていた。
その崖は人ひとり居ることができるかできないか程の幅しかない。
にもかかわらず先端までずかずかと進んでいってしまいそうな勢いの十代に、俺は慌てて立ち止まり、腕を引いた。
振り返った十代の表情は、月明かりに照らされているものの上手く見えなかった。
「ちょっと…危ないよ、落ちたらどうすんだ、」
「へーきだって、落ちそうになったら俺が引っ張り上げてやるよ」
そういう意味で言ったんじゃない。俺は彼がそういう性格なのだと割り切らないといけないと気が付いたのはこの時だ。
食堂の前から走った時から繋いだままの手を、十代がさらに強く握ったのを感じた。
「…その根拠のない自信はどこからくるんだか」
「へへっ、まーね」
「こら、褒めてないっての」
「そんなのはいいからさ、。視線落としてみろよ」
十代に話をそらされたようで癪だったが、俺は言葉に従い十代から視線を外した。
そしてその先に広がっていた景色を見たとき、俺は目を疑った。
足下の崖、その下に広がるのは夜の海――のはずなのに、その闇の上には無数の光の点がゆらゆらと漂っていた。
変な話だが、言うならそれは"海の星"だった。季節外れの小さな天の川が、そこにはあった。
海面に映った上限の月もゆらゆらと揺れていて、まるで空を鏡で映したかのようである。
「あれ、クラゲなんだ。体に発光体があるんだって、本に書いてあった」
狭い崖の上、十代と自然と寄り添いながら、俺はその景色に心を奪われた。
普段の彼からは想像できないようなセリフ(十代は普段本さえ読まない)さえ耳に入らないほど、とにかく俺は感動していた。
ようやく言葉を放てるまでに意識を戻す事ができたのは、脳裏に焼きつけるように視線を巡らせた後だった。
「…すごいな」
「だろ?ここ俺の秘密の場所なんだ」
まるで自分のことのように嬉しそうなボーイソプラノが、想像よりすぐ横で聞こえた。
崖越しに海を見るために下げていた顔を上げた時、彼の目線が、俺の目線の隣まできているのに気付いた。
繋いだ掌が、何故だか温かい。そのぬくもりは彼のものか。それとも食堂の時から、俺のものだったか。
「つっても、最近見つけたばっかでさ。誰も知らないだろうから、誰かに教えたくて」
彼は悪戯っ子のように笑っていて、此方を覗きこんでくるその瞳はさながら星が瞬いているように、輝いていた。
(空の闇よりも深いその藍色は全てを飲み込むように口を開けている)
(別に特別なことではなかった。ただ、その時、俺が思っていたよりも、彼は幸せだったのだ)