後に聞いた話だと、俺が気絶していたのはほんの1,2日ほどだったらしい。
前よりも噂になる事もなく、処置も迅速だったようで、あっという間に怪我は完治した。
それでも歳月が経つのは早いものである。
アカデミア一帯に咲いていた桜の木は、今や青々とした新緑に彩られていた。

千分の九百八十九


「こんにちは〜…」

日差しも温かな日曜日。生徒も先生もお休みの日に、俺はオシリス・レッド寮の扉を叩いた。
がらがら、たてつけの悪い木製の引き戸が、内側にいる誰かによって開かれる。

先生!まってましたにゃ。ささ、中へ」

数日前、鮫島校長の意向と大徳寺先生の発言により、俺は大徳寺先生の元、レッド寮に寝泊まりすることが決まった。
先生が持つ文献と、その知識で俺のこの、背中に生える翼の謎を解明しに来たのである。
俺はレッド寮の食堂にあたる場所に、大徳寺先生に招き入れられた。

「しばらくお世話になります」
「そんな、気にしなくて良いですにゃ。生徒達も大歓迎ですにゃ」

2人でぺこぺことお辞儀をしながら言葉の応酬。笑顔が自然と顔に貼りつくのは、日本人の性だからか。
立ち話もなんですからと、部屋に隙間なくびっちりと並べられた机の、その一角を指差して大徳寺先生が勧めた。
俺は一言断りを入れ、肩にかけていたボストンバッグを床に落とすように置き、丸椅子を引いて腰掛ける。

なかなか閉まらない引き戸と格闘する大徳寺先生のほうに、机越しに視線を向ける。
すると、見慣れた人影が2つ、引き戸の外にあることに気が付いた。
彼らはこちらに歩いて来ていて、自然と彼らの視線は前方にいき、必死に引き戸と格闘する先生に意識を向けるのは当然だった。

「大徳寺先生、また閉まらないの?」
「そ、そうなのにゃ〜」
「マジかよ?これで2回目じゃんか――暇だしなおしちゃおうぜ、センセ」
「あっ、僕も手伝うっす」

格闘する大徳寺先生に手を差し伸べたのは、十代と翔だった。
先生と十代の、せーの、という掛け声と共に、力が入れられた引き戸がガコンと外される。
下の溝には埃とも、引き戸が欠けた木くずともとれないものが圧縮されたようにそこにはあった。
翔がそこに手を突っ込んで原因を取り除けば、再度取りつけられた引き戸は今までが嘘だったかのようにスムーズに動くのだった。

「たすかったにゃ〜。2人ともありがとうなのにゃ」
「おう!」

照れたように笑う翔と、当然だと言わんばかりに言葉を紡いだ十代。
対照的な組み合わせを見ながら、俺はぼんやりと、ああ、だから翔の"兄貴"なのかと変に納得した。
それと同時に、翔の幼い姿を思い出して、子を思う親の心境を一瞬だけ胸に募らせた。

「翔も十代も偉いなぁ」
「へっ!?」
「うおぉ!?」

ほんの気まぐれで労いの言葉をかけたら、飛び跳ねて驚くもんだから、俺はつい噴き出した。
見られているとは思っていなかったんだろうか、そんな2人の、滅多に見れないような表情は新鮮を飛び越え笑いを誘った。
それはもう、腹のあたりをおさえこみ、丸椅子の上でもんどり打って堪えなければならないほどに。
叫んだ時に俺の方を見ていたのは分かっていたから、俺は顔を上げ、震える声でもう一言付け足す事にした。

「ひさしぶり」

驚愕の表情から一変してはちきれんばかりの笑顔になった翔と十代が口を開いたのは、ほぼ同時だった。

っ!」
兄さん!」

俺の視界、小走りで駆け寄ってくる2人の向こうに、大徳寺先生が映った。
視線が合うと彼は困ったように笑った後、踵を返して後ろ手で引き戸を閉めるのが視界に入った。

ーっ」
「お、わ!」

そちらに一瞬気を取られていた俺の意識は、腹部に感じられた十代の強烈なタックルによって引き戻される。
不安定な丸椅子が大きく揺れ、体がバランスを崩しそうになったが、ぐっと足に力を入れることでどうにか持ちこたえた。
肝を冷やし早鐘のように脈を打つ心臓が脳に血液を送っているのを感じた。それは一種の身の危険だった。

っ、退院したのか!」
「…おかげさまでね」

至極嬉しそうな表情が直ぐ目の前にあっては、なんだか怒るのも憚られて、つい笑顔を返してしまう。
そして右隣の俺の視線の少し上に、眼鏡のレンズ越しの大きな目に大粒の涙を湛えて立つ少年がひとり。

「よ…良かったよぉ〜」
「おいおい、泣くなよ、翔」
「うっ、――な、泣いてないっすよ!」

十代の言葉に慌てて、翔は服の裾で乱暴に眼鏡の下を擦るしぐさをしている、が、それが矛盾しているとは気が付かない。
ましてや俺が笑みを深める理由に一枚噛んでいることなど彼の想像にも及ばないだろう。
一方で十代は、座っている自分の横に回りこんで肩を組んで、無理な体勢のまま隣の丸椅子に腰かけた。

「そういえば、千羽鶴作ったのは翔だよな」
「えっ?」
「ありがとな」

病室にかけてあった色とりどりの折り紙。それを思い返しながら言う。
すれば翔は一瞬キョトンとしたのち思い至ったらしく、泣いていた顔も何処へやら、屈託のない笑顔になる。
横で十代がむっと口をとがらせ、不服そうな表情を浮かべる。

「千羽鶴は俺も作った!」
「ああ。でも翔がほとんど全部作ったんだろう」

えっ、というように驚いて怪訝な顔をした2人が、俺を覗き込むように見てくる。
タイミングを図ったように同じ言動をする、それは自分にとって、見ていて飽きるものではなかった。
彼らは顔を見合わせた後、隣から十代が、今の表情をそのまま言葉にしたような問いを投げた。

「なんで知ってんだ?」
「…さあな」

釈然としない態度で返せば、十代も翔も、俺と同様、首を傾けた。
弟思いの青年の顔を思い浮かべて、俺は自然と頬の筋肉が緩むのを感じていた。

(大多数の折鶴の折り目が丁寧な中に、不格好な鶴がぽつぽつと紛れてれば嫌でも分かる)
(亮が大量の色画用紙を注文したことをトメさんから聞かされたのは数日前のこと)