超有名企業のご子息と顔見知りになってしまった。
いわずもがな万丈目グループと言ったら今乗りに乗っている大企業である。
前から有名人を見かける事はあっても、遠目に撮影の現場を目撃する程度で、会話なんてもってのほか。
だから俺はこの珍事に如何にして対応してよいものか分からなかった。
しかしその心配も杞憂に終わり、季節は冬から遠ざかり、春へとその足を伸ばし始めていた。
初恋は散る桜に似ている
4月。海岸沿いの桜の幹に蕾が付き、一部の木にはちらちらと開いた花もみられる。
沈む夕焼けが美しく海に輝きを与える。しかしそれでもまだ、潮風は冬の名残を運んでいた。
さすがに羽織れる物が薄手のジャケットだけでは駄目らしい。俺は一度襟を正した。
俺はすることもなく暇だったので、アカデミアの中を散策していた。
少し疲れたので、誰も居ない南西の海岸を見渡せる、切り立った崖の傍に、座り込んでいる。
「」
小さく自分を呼ぶ声がした。後ろだ。振り向けば、特待生の制服に身を包む、見慣れた顔がそこにあった。
「亮」
「一緒に来て欲しい所がある」
どこか急かすように言葉を紡いだ彼に疑問を抱きながらも、俺は立ちあがりその背中を追った。
海岸から離れるようにして、森の中を突き進んでいく。
何処に行くのかと問うても亮はさあな、と一点張りで、まったく謎である。
訝しげに思い始めた頃、ふと、目の前が鬱蒼と茂った緑でなく、開けた緑に変化した。
亮が立ち止まった。俺も立ち止まった。
「ここだ」
連れてこられた場所は、先程の海岸から10分と経たないところにあった。
「…これ…、」
ずっしりとした幹をもつ一本の桜が、その身を周囲の雑多な木の中に埋没させていた。
満開になった花弁が、ひしめきあうようにその存在を主張し、身を寄せ合い、一つの木を形成している。
徐々に暗くなる辺りとは正反対の色みは、闇をたたえる空の中でぼんやり光っているようだ。
ざわざわと揺れて、小さな花弁が根の周囲に円状の絨毯を形成して、さながらそこは別世界だった。
感嘆のため息が思わず漏れる。
なんて言っていいかわからないが、とにかく美しい。
陳腐な表現だとは思うが、今この時、この瞬間を表す言葉がこれしかないのも事実だった。
俺はしばらく、見入っていた。
ややあって太陽がその姿を海に沈めたのに気が付いたとき、周囲は闇に落ちる寸前の明るさを保っていた。
亮は俺の傍らにいた。同じように桜を見て、彼がこう零した。
「ここは、何時来ても美しい」
頷いて同意する、彼は心底この景色に入れ込んでいるようであったので、俺は酷く納得した。
横顔のそれ、その視線の先には、桜が入っていない。
どこか遠くを見つめて、思案顔で思いにふけって。さながら、彼の中で淡い蕾が芽吹いているよう。
俺は緩む頬の筋肉を意識しながら、当たり障りのない返答を努めた。
「ブルー寮の近くにこんな場所があったなんて知らなかったよ」
「おそらく全校生徒で俺しか知らないだろうな」
「独り占めしてたのか?ずるいなぁ」
茶化しあいの会話が途切れて、また風が吹いて、桜の花びらが俺の目の前に落ちてくる。
何の考えもなしに掌をひらいて待ちうけてみれば、そのピンクは抵抗もなしに窪みに落ち着いた。
それを眺めていた俺は、おもむろに手を払った。
顔をあげれば、亮が無粋な瞳で此方をじっと見つめているのに気が付いた。
「ま、でも亮が卒業したら俺が独り占めだ」
「…そうだな」
彼と俺の間で滞ったままの空気を、吹き抜ける夜風が拭ってくれることはなかった。
俺は今一度、桜の大木を仰ぎ見た。桜は動くことは無いが、花弁を飛ばすそれは、俺に迫ってきているように見えた。
そんなはずはない。こんなにも見事に、地に根を張り腰を据えるこの大木が、倒れるはずはないのだ。
「…暗くなってきた。そろそろ帰ろう」
踵を返して、俺は背を向けた。
ややあって後をついてくる足音が、耳の後ろで揺れていた。
それから俺と亮は、無言だった。
森の中、どんどん暗くなっていく周囲、少しづつ接近するアカデミアの人工灯。
あてどなく光を目指して進んで、また10分経たないうちに、アカデミア校舎の裏手に辿りついた。
校舎備え付けの大きな冷暖房機のファンが、沈黙と、空から零れる月光に包まれていた。
「ふー」
俺は足を止めずに小さく息を吐いた。足下の音が、コンクリートを踏む音に変わる。
歩調が微妙に違う、かん、こん、かん、こん。階段を下りていく音が二つ。
「」
ふとその一つが前触れなく止まったので、俺はそこでようやく後ろを振り向くに至った。
夜に上り始めた小さな月を背景に、表情の見えない亮が俺を見おろしていた。
眩しくて目を細めても、彼の面に浮かぶ感情は伺い知れなかった。
「あの景色を誕生日のプレゼントとしたら、ダメだろうか」
彼があの、誰もが経験する、甘酸っぱくて苦い、叶うことのない想いを抱いているのは確実だった。
誰に?…そんなの聞く方が野暮だろう。答えなど聞く必要もない。
俺は彼を幼い頃と透写してみていたようだったから、ひとつ目を瞑って、視界を一新した。
そこにいたのは、白い特待生制服身につけた、"1人の男"だった。
「…そうだね。きっと喜んでくれるさ」
彼は眉一つ動かさず、けれどもどこか困ったような微笑みを返して、足を前へと出した。
(この時、俺は彼にとって非情な鬼であったのかもしれない)
(今日自分が誕生日であったことを後々になって思い出すのだが、それはまた別の話である)