あの一件のお陰で、十代に借りを作ってしまった。
俺に対して何か変な要求(例えば毎日ドローパンを奢るとか)をするかと思えば、そうではなかった。
ただ彼は一言、「アカデミアに俺が居る間は辞めないでほしい」と、そう言っただけだった。
その場のノリや雰囲気で承諾してしまったが、案外難しい事だと今さらながら思う。
こう思う要因が先輩にあるのは、言うまでもない。

知らぬが仏


冬も終わりに近づいた3月上旬。そろそろ冬の重装備から軽装になってくる頃だ。
しかしそれでもまだ寒さは厳しい。俺は結局がっちりと着込んだ状態で、外の清掃に向かっていた。

今日の予定としては冬季期間立ち入り禁止になっていた屋上の汚れ落とし。
あまり人は来ないが、それでも一部の生徒達が利用する所なので、綺麗にしなければならない。
屋上に繋がる内階段側の扉の前、教頭から渡された鍵を手袋の手でどうにかこうにか差し込んだ。

「…ん?」

しかしいくら回せど手ごたえがない。もしかして施錠されていなかったんではあるまいか。
鍵を差し込んだままノブを握ると、簡単に扉は開いた。そのまま体重をかけて屋上に足を踏み入れる。
そして目の前に広がる光景は、想像を絶するものだった。

「…十代?」
「お、じゃん!」

十代がいるが、現在授業中ということを別にすれば、決しておかしい事ではない。
彼は屋上の常連組だ。俺が知る限り、彼はよく此処にいる。

「…何してんだ」
「? 見てわかんね―のかよ」

彼はデュエルをしていた。十代がこれを好きなのは百も承知である。

「いや、分かるけど、そうじゃなくてさ…」

現状を一度全て整理する事にしよう。

まず、十代と見た事のない男子生徒がデュエルをしている。
男子生徒の服装はあまり褒められたものではなかった。十代は相変わらず何時も通り。
そして、その2人から視線を外した辺りに、仲良く睡眠を貪る生徒諸君。
驚くことに、普段から真面目に授業を受けているはずの三沢に、明日香まで熟睡していた。
最後に加えて、向こうに潜水スーツのようなものを着たクロノス先生らしき人も倒れている。

これは一体どういう事なのか。
俺には現状から理解できる部分がほんの一握りしかないので、困惑していた。
唯一分かる事と言えば、俺がこの事態を収拾するしかないだろう、という事ぐらいだった。

「見たことない先生だー」

元凶の一員であろう男子生徒が、この場で、俺を指すであろう代名詞を口にした。
視線をそちらに向けると、花が咲いたような笑顔を浮かべた男子生徒は自己紹介を始める。

「はじめましてー。ぼく、茂木もけ夫だよ」
「あ、…はじめまして。です」

茂木君は、ボロボロの服を着ているが、中身はしっかりしている、ように見えた。
十代よりか頼りになるかもしれない。俺はそういう考えの元、彼に質問してみることにする。

「茂木君。これは何事かな?…皆寝ちゃってるし、きみたちはデュエルしてるし」
「うーんとね。これはぼくの所為だなぁ」
「え?」
「コイツの所為で、皆やる気無くしたように寝ちまったんだよ」
「はぁ…」

発言の内容が俺には理解できなかった。
質問の意図は理解しているはずなのだが、彼らはそうとしか答えなかった。
十代の補足説明を聞いても、どうも的を得ない。俺は困って、ため息交じり、曖昧な応答を返すしかない。

『そうだよー』

ふと視界の隅から、声をかけてくる第三者がいた。
視線を向ければ宙に浮く水色の人形。生き物とでも言うべきだろうか。ぱっと見かわいい。
それは僅かながら透けていて、それでいて自らの意思で動いているように見えた。
一瞬ぎょっとしたものの、デュエルモンスターズのソリッドビジョンの類だと思って、傾きかけた思考を流した。

『えへへぇーはじめまして〜せんせー』

喋った。
俺はまたしても絶句する破目になった。
今まで獣のような唸り声や、鳴き声のようなものはソリッドビジョンで幾度と聞いた事はある。
しかし今回のコレは一体全体どういう事だ。喋りかけてきているではないか。
あろうことかご丁寧に自分の名前まで付け加えて。

脳のキャパシティはとっくに限界を超え、俺は視線を水色にフォーカスしたまま、硬直していた。
その様子を傍らで見ていた茂木君が、何かに気が付いたように俺に話しかける。

せんせも、もけもけがみえるのかい?」
「へ?」
「水色の、四角いかわいいの」

茂木君はおもむろに腕を上げ、指差した。その先にはゆらゆらと動く水色。
彼の話ぶりからして、コレを"もけもけ"と断定してよさそうだった。

「…見、えてるけど、」
「ほんと!?」
「マジかよー!もっと早く言ってくれよそういうの!」
『わーい、ぼくがみえるんだあ』

質問に対し肯定の意を示せば、彼ら2人(と1匹?)は突然はしゃぎ出した。置いてけぼり感が否めない。
目の前で、大層嬉しそうに、小さな羽根を動かして飛び回るもけもけに軽く目を奪われる。
というかまた喋った。なんで喋るんだ。

「……何?どういう事?」

そもそも、ソリッドビジョンとは万人に見えるものだ。
なぜそれが見える事に彼らは反応を示しているのか。そういうニュアンスを含めて疑問を口に出す。
第六感が警告を鳴らしているのに、それを無視した結果、俺はとんでもないお話を耳にしてしまうのである。

「このもけもけは、ソリッドビジョンじゃないよ。せんせ」
『よろしくねぇ、せんせ』


(今度こそ俺は本当に絶句した、口が聞けないというのはまさに、このことだった)
(そして酷いデジャヴ感に苛まれたのも、この時だった)