十代はしばらく俺の腕をつかんで、沈黙を破ることはしなかった。
時計が見当たらない事で時間の感覚が曖昧だったが、そうしていたのはさほど長い時間ではなかったと思う。
彼は突如ぱっと顔をあげて、ごめんと一言、何事もなかったかのような顔をして笑った。
涙の筋も声の震えも、なかった。
俺も、何事もなかったように、ああ、と零すしかなかった。

壊れたピースの一欠片


あの後。十代の様子が変になって、元に戻ってから。彼は今昼休みで、この後は授業なんだと言葉少なに出ていった。
床に横たわったままだった紙袋が彼の手に戻る寸前に、オートドアは音を立てて閉まってしまった。

それから数分としないうちにチャイムが鳴り、その音が鳴り終わらないうちに鮎川先生が帰ってきた。
上半身を起こしている俺を見て、彼女も十代同様手に持っていた手提げ袋を力なく落とした。
涙ぐみながら俺の健康状態を診査する先生に、十代に聞けなかった(聞ける雰囲気ではなかったが)疑問をぶつけた。
彼女は驚くべき返答をする。

「十代くん達に聞いたんだけど…先生、あなたの背中に翼が生えたそうよ」

一体何のことか理解できないでいると、彼女は大きめの鏡を二つ持ってきて一つを俺に渡してきた。
先生が俺の後ろに周り、胴に巻かれた包帯をとり去り、合わせ鏡にしてくれたおかげで自身の背中を確認することができた。
自分の健康的な肌に不釣り合いな、茶色く引き攣った傷が二本背中の骨の辺りに縦に入っているのを、俺は確かに見た。

「詳しいことは十代くん達に聞いたほうが分かるはずよ」

そんなふうに、先生はどこか疲れた様子で話した。彼女はどうやらそこまでの情報しか持っていないようだった。
鮎川先生は手際良く胴に包帯を巻きなおした後、右腕に刺さっていた針を抜いて、新しい点滴の針を刺した。
俺は何も言えないままぼんやりと眺めていた。


授業終了のチャイムが鳴り、点滴のパックが一つ終わったところで鮎川先生が出ていく。
5分経った頃、怒涛の展開が待っていた。
十代、翔、明日香と、前田隼人という大柄な少年という4人が一斉に押し寄せ、俺が気絶していた間にあった出来事を教えてくれたのである。

情報量が多く、説明と消化に時間がかかったが、要約すると俺は殴られて誘拐されて人質に取られたらしい。
その犯人は闇のアイテムと呼ばれる千年パズルを持っており、明日香と俺をかけたデュエルを十代に要求してきたという。
十代が勝つ寸前に、俺と十代とその犯人が黒い闇の球体に吸い込まれたそうだ。
その中で十代は犯人にどうにか勝ったものの、黒い物体に囲まれ逃げ場を失った。
途端、俺の背中から、俺の身長よりも大きな白い翼が広がって、俺は宙に浮かびあがり、光を放ったのだという。

十代の周囲を囲っていた物体は俺の光に反応して吸い寄せられるように俺に襲いかかったそうだ。
俺はその物体を引きつけつつ飛び、十代も上手いこと避けつつ、2人で闇の切れ間からギリギリ脱出。
その脱出した瞬間に隼人も明日香も翔も、俺に翼が生えているのを目撃したようだった。
俺の背中の翼は、十代と俺が地面に落ちた瞬間に光の粒子となって消えていった…という話だった。


後は廃寮から出て、気絶した俺を保健室まで運んでくれたとのことで、俺はいろんな意味を込めて4人に感謝の意を述べた。
にわかには、信じ難かった。それでも彼ら4人がわざわざ口裏を合わせてまで嘘をつく理由が思い当たらなかった。
信じるという選択肢しか残っていない状況は、俺にのしかかってくる不安にしかならなかった。
背中の傷が、訳もなく痛んでその存在を主張する。



その日の夜になった。もう当の昔に彼らは鮎川先生に追い出されて、銘々の寮に帰ってしまった。
鍵を閉められた窓からは秋夜の月が顔を覗かせていて、誰も居ないこの部屋の床に四角い光を落としている。

鮎川先生の話だと、俺はどうやら8日間も意識が戻らなかったらしい。
にも関わらず俺は今至って健康だ。傷のほとんどはもう治りかけている。体調も悪くない。
だが絶対安静を先生からきつく、きつく言い渡された俺は、上半身を起こして外を見るぐらいしかできないでいた。
いくらベッドに横になっていても眠れないのである。

「…」

理由は自分自身が一番よくわかっていた。
俺は生きている。前となんら変わらない、それでいて全く異質な"この世界"で。

まだ意識が"前の自分"にあった時、俺は至って健全な20の男だった。
けれどその20才の誕生日、夜ベッドに入って寝ると、何の拍子か、俺の体は5才になっていたのだ。

精神や記憶は、20才のままだ。小さくなった身体と手を見て、俺は勿論パニックに陥った…
と、言いたいところだが、その時の俺は「何だ、夢か」程度の認識しかもっていなかった。
今思えば何とお気楽な、と叱咤したい衝動に駆られるが、逆にそれが良かったのかもしれない。
顔も知らない母らしき女性と父であろう男性の2人に連れられ、遊園地に来たのは今でも覚えている。
そこで、子供生活特有の自由と不自由を、20にもなって体験することができたのである。
夜家に戻る車の中、まだ10時だというのに小さな体は素直に睡眠へと落ちていった。
俺は次の日の朝もその状態でいるだなんて、その時想像することなんて出来なかった。

紆余曲折あって、本来なら33才の男として生きていたはずの"俺"は今この18才の身体になっている。
この身体になって13年になるが、5年の不明瞭な期間がある。
だがその疑問は簡単に解決することができた。生まれた頃からのアルバムを見ることで、俺はなんとなく理解した。
アルバムは一般家庭の子供の成長記録のようで、俺の顔ではない顔が、笑っている写真がずらりと並んでいた。
表情豊かなその子供の顔は、俺が鏡の前に立ったときに映る顔と、酷く酷似していた。
そこでようやく、俺はこの少年の肉体の"所有者"になったと悟るに至ったわけだ。

これがどうして起こったのか俺に知る由は無い。それにこの事はもう13年前になる。
成長する同じ名を持った肉体と、2度目になる人生と、1度目の人生と全く異なった環境、地名、両親。
それでも、俺の心は世間体を理解した20の男であったし、それなりの思慮分別も持ち合わせていた。
故に、俺は世間一般で言う、普通の生活を送ることができていたわけだ。

しかし異変のピースは背中に突如その片鱗を現した。翼が生えていたと語られた、背中の火傷のような傷痕。
まるで潜伏していたみたいに肌の上に2本の線を描くそれは、ずいぶん昔からあるように肌に馴染んでいる。
背中に手をまわして痕をさすったが、ざらざら感が手に伝わる以外、これといった変化は起きなかった。

気がつけば月が傾いていた。何時間経ったのか、それとも何分かしか経っていないのか。
確かなことは、身体が休息を求めているということで、俺はそれに従い瞼を落とすことにした。



直後、オートドアが開く音がした。閉じかけた目を反射的に開く。何者かが悠然と歩を進めてくるのが視界に入った。
その者は迷うことなく俺の横たわるベッドの向かいに立つことで、その姿を月光の元に露わにした。

「…海馬先輩」

特徴的なロングコートを身にまとい、腕を組んで見下ろしてくる男。
思いもよらぬ人物の登場に、その人物を指す名を呟くものの、俺の思考回路は暫く停止していた。

「事情は聞いている」

オートドアが閉まる音と同時に、まどろんでいた俺の意識がようやく状況を理解し始める。
いつだってこの男は唐突だ。相手に考える暇も与えないまま我が道を突き進んでいく。
嫌という程知っていたものの、こうもタイミング悪く現れてくれるとは可愛くない"先輩"だ。

「もう、知ってたんですか、」
「社長だからに決まっている」

皮肉腐って言えば、至極当然のことだと言わんばかりに彼は切り返す。
自信に満ちたその立ち振る舞いが、言葉にまで現れているように感じられる。
沈黙と視線を彼に送ると、数秒目と目が暗闇の中でかち合って、俺が先に瞬きすると、彼はその場で俺に背を向けた。

「…容態は、どうなんだ」

らしくない言葉が掛る。背中越しの声はいささか小さかった気もしたが、静かな部屋なのでそこまで気にならなかった。
どうしたのかと疑問に思いながら疑問に対して返答する。

「大分良いですよ」
「そうか、」

鮎川先生に絶対安静と言われたが、それは言葉にしない。なんだか今の彼に言うのは、場違いな気がした。
変な沈黙が流れて、俺はあまり動きの良くない脳を駆使して彼をからかう言葉を声に出してみる。

「…先輩って意外と暇なんですね」
「何を言うか…!俺はお前ほど暇ではないのだ!」

先刻とうって変わった冷静でない切り返し。先輩と双璧をなすあの有名人と、デュエルしていた時と同じような感じだ。
感情に身を任せたように荒々しい。さながら癇癪を起こした大きな子供だ。
逆に言えば、それが彼のいつも通りでもあった。

「ふん、人の心配をする前に、貴様は貴様自身の心配でもしたらどうだ」

ピシャ、という音と共に室内はまた静まり返った。誰もいなくなった部屋に響く自分の心臓の音が響く。
それからややあって、俺は笑いそうになって詰めていた息を大きく吐き出した。
彼が何を考えているのか分からなかったが、最後の発言により、明日は槍が降るにちがいないとさえ思った。

(部屋を出た彼が、ある感情を持った表情で立ち尽くしているのを、この時の俺は知らなかった)
(これが噂のツンデレってやつか)