海馬先輩の言ったことは確かにアカデミア内でも真ささやかに噂されていた。
廃墟になった寮があるということと、その周囲にとある生徒が訪れているということ。
あの雰囲気の割に簡単な内容で拍子抜けしてしまった、彼の頼み。
そもそも、社長直々に頼むなんて滅多にないことだからとYESを言ってしまった俺が間違いだったのだ。

黙秘する権利と引替に


「(くそ…騙された、)」

何を騙されたかと言えば、その生徒とやらは夜にしか出ないということだ。
てっきり、昼だと勘違いしていたのは俺だけだった。
昼間は学校だし、日曜日は警備員が巡回しているから廃寮には近づけないし、近づかないのが当然だというのに。
それでもわざわざ来るのには理由があるはずだと、海馬先輩は考えたらしい。
生徒の理由を聞き、場合によっては説得させ、危険な廃寮に近づかないよう注意する…
それこそが、つい4日前、社長が俺にかけた電話の主旨であった。

故に今、俺は懐中電灯を左手に視界の悪い森の中歩みを進めているわけである。
いくら中身が三十路を越えていたとしても、こういった闇夜は怖いものだという意識が先行する。
風に揺れる木々、自身の足が草を踏む音…その全てが静かな星空の元に響く。
心拍数の上がってきた心臓に、ある音が突き刺さった。
その音は、今までより一際大きな葉擦れの音と共に姿を露わにする。

「誰なの!?」

ひっ、という情けない声を小さく出してから俺は声の方向に左手を突き出す形で先を見ようとした。
暗闇に浮かびあがる人影は、暗闇に慣れた俺の瞳にはっきりと映し出された。

「…明日香ちゃん」

その輪郭を捕えた時、俺はつい最近知り合ったばかりの少女だと気がついた。
俺と同じように此方に、光の弱い懐中電灯を向け、呆然と立ち尽くす彼女の瞳孔は開ききっていた。
名前をよばれたことで彼女も俺に気がつき、険しい表情のまま、まじまじと此方を見る。

「なんだ、だったの…驚かさないでちょうだい」

しばらくして俺だと合点がいったらしく、軽くため息をついた少女の顔は先ほどと少し変わっていた。
その様子を見た俺は、なんだか心に余裕が出来ていた。
初対面の時とと呼び方が違う彼女は、確実に亮の影響を受けていると思えるほどに。

「ごめん…。一応これでもアカデミアに勤めてるんだけどね」

そう冗談めかして告げると明日香は俺を見て、はっとした表情の後にバツが悪そうに眉を下げた。
少しだけ左下に視線を落とし、黙考したのち言葉を選びながら慎重に一言を告げた。

「…でも、どうしてここに?」
「夜中に寮を抜け出して、廃寮の近くでうろついている生徒の噂を聞きつけて、見回りに来たんだよ」

遠まわしに咎めると、先ほどとうって変わった彼女は視線を落とさないで、真っ直ぐ俺の目を捕えた。
小さい虫が懐中電灯の光に集まってきているのを、俺は視界の端でぼんやり見ていた。
力強い、それでいて柔らかい何かを感じさせる声色が、鼓膜を揺らして。

「ごめんなさい、でもこれには理由があって、」
「そう」

俺は自然と頷いて、発言の先を切った。だって、ちゃんと二本足で大地を踏みしめる強かな少女の顔は泣きそうだ。
目の前の少女は気が付いている様子はない。きっと無意識で堪えてしまっている。
そう思うときゅっと心が締め付けられる気持ちになって、俺が泣かせたような罪悪感に陥るのだ。

「…聞かないの?」

驚愕を顔に露わにした明日香が俺にストレートに疑問をぶつけてきた。
暗闇の中でつけたままの懐中電灯が、相手と自分の表情を全て映し出すのに不十分で良かったと思う。
俺は今の今まで止めたままだった足を前に動かして、明日香の手を握った。秋口の夜に似合わない、冷たい手だった。

「君は立派な女の子なんだからね、いくら学園内とはいえ、夜の森は危険だよ」

論点を移すように、彼女の両手を懐中電灯ごとぎゅうと握って熱を移す。骨ばった男の掌とは違う、柔らかい感覚があった。
女の子は冷やしちゃいけないのだと、昔誰かから聞いた事がある気がする、誰だったかはわからない。
でも芯まで冷えている訳じゃないその手のぬくもりに、なんとなくほっとした。
明日香は手を握られたまま何も言わない。俺も無言のまま、少し経った。手元の懐中電灯は空へと向いている。

「まあ何にせよ、見つけた生徒が君でよかった」
「…どういうこと?」

星空を見上げる素振りをしながら、無言の静寂の中、頭で組み立てた本心ではない言葉を口走る。
頭の片隅の冷静な部分で不安を感じている自分がいるのを、あの瞬間、俺自身知っていた。
彼女が驚いた様子が手を伝わってきて、下からの光にぼんやり照らされた少女の顔を見たけれど、よく分からなかった。

「君なら、僕はわざわざ書類を書いて報告する必要があるようには思えないからね」

不安になると饒舌になるという発見と同時に、俺と少女が触れ合っていた場所がごく自然に解けていった。
元々彼女が持ってきていた小さめの懐中電灯は、支えを失って重力に従った。

(黙秘する権利は、君にだってある)
(決してお化けだとか幽霊だとかの類が怖いのではない、"俺"は一体何なのか無意識に考えてしまう夜が、怖いのだ)