特別になりたくない。


上手なフラグの立て方 1


『おはやっほぉー!全国一千万のHAYATOファンのみんなぁ!元気かにゃあ?』
「おはやっほーっ!きゃーHAYATOちゃ〜ん!」

美味しそうな朝食の香りが漂うリビングのドアを開くと、そこにはテレビに張り付くように佇み、朝と思えないハイテンションで大はしゃぎする母さんがいた。まだ購入して間もない薄型のテレビからは、現在人気沸騰中の新人アイドル、HAYATOが満面の笑みを浮かべ挨拶をしている声が響き渡る。

「あら、おはよう!」

俺がリビングに一歩足を踏み入れれば、母さんはこちらを振り返らずに俺に挨拶をする。テレビの画面のHAYATOに夢中になっているはずなのだが、なぜか俺が来たことはわかるらしい。

「おはよ。てかまたおはやっほーニュース見てるんだ」
「いいじゃない。HAYATOちゃんのこと大好きなんだもの」

一秒も見逃さない、と言わんばかりの眼力でテレビに食い入る母さんは、生粋のアイドルオタクだ。俺は毎朝恒例になりつつあるやりとりをして、呆れて肩を竦めるしかない。リビングにはしっかり俺の分だけのご飯が準備されている。イスについて、手を合わせていただきますを言う。前は母さんも一緒に席に着いて、召し上がれ、なんて言ってくれたものだが。本人は既に画面の向こうの新人アイドルに首ったけだ。

『CMの後は桜の見所になっている場所をVTRで紹介しちゃいます!チャンネルは、そのままでっ!』
「…っはぁー…HAYATOちゃんホントかわいい!」
「朝から浮気か、ママ?」

CMに入った絶妙なタイミングで、父さんがリビングに入ってきて、母さんの隣にしゃがんで声をかける。

「私がカッコいいって思うのは、あなただけよ?パパ」

その言葉に母さんは振り返り、悪戯が成功したみたいな笑みをして、父さんの頬に軽くキスをした。母さんはCMになると話を聞く態度をしてくれるから、父さんは最近その隙をついて声をかけるスキルをメキメキ磨いている。

「あのなぁ…朝からイチャつくのやめろよ…」

さすがに両親の甘い空気を食事中まで味わいたくない。ただでさえBGMでHAYATOの声が流れているのがむず痒く、朝から言いようのない気持ちになるというのに。あのわざとらしい胡散臭いキャラが視界でちらつく程度ならまだいいが、それ以外に両親がイチャつくのを毎朝半強制的に見せられるようになれば流石に嫌気がさしてくる。

「ええーっ?どうしてよぉ」
「なんでって…なんでもだ!」
「ケチね、ったら」
「そんなんだからお前はモテないんだ」
「…はぁ」

なぜか父さんまで俺を非難してくる。どっちも耳に悪い。別にHAYATOは嫌いじゃないが、とにかくHAYATOを出汁にして両親が毎朝イチャつくのが目に毒なのだ。リモコンを手に取り、電源ボタンをぽちっと押す。

「あーっ、HAYATOちゃん!」

母親から悲鳴が上がる。知ったことじゃない。俺は静かに飯を食べたい。父親からは良くやったと親指を立てられたので、深くうなづいてやったら満足そうに笑った。

「じゃあパパは先に行くよ」

むっとした表情の母さんの頭を父さんは撫で、頬にキスをする。これはいつも仕事に出る時の父さんなりの挨拶だ。

「気を付けてね、パパ」
「ああ。いってきます。…も今日から学校頑張れよ」
「ん、」

それからついでと言わんばかりに俺の頭をぐしゃっと撫で回した父さんは、スーツを翻してリビングから颯爽と出て行った。

「はぁ、行っちゃったわ」

結局母さんは父さんを見送ってすぐ、素早くリモコンを回収してテレビをつけてしまう。またHAYATOのおはやっほーBGMが流れてくる。

『…以上、今日のテーマは桜でした!いや〜最後のところなんて、見事な桜吹雪だったね!ボクも見に行きたくなっちゃった!と、いうわけでぇ…今日最後に紹介した場所を、今から突撃!開花レポートしちゃいま〜すっ☆ 天気予報の後、ボクが直接向かいます!楽しみに待っててねっ!』
「えっ!うそ!きゃ〜!どうしよう!HAYATOちゃんが紹介してるここ、うちから近いわよ!」

はしゃぎ出した母さんを視界に極力入れないように、俺はご飯を素早く済ませるしかなかった。この後、憂鬱な登校時間が迫ってきているからだ。

★★★

朝食を終え、自室に戻った。今、俺は不本意ながら女子用制服を着用している。当然生物学的に女ではない。ついているものもついているし、心は女です!なんてこともない。

なぜ女装しているのか。事の発端はすべてあの早乙女み…シャイニング早乙女のせいである。俺の顔はどこからみても男ということは間違いないにも関わらず、俺の家に届いた制服がどこからみても女性用のものだったことが、全ての始まりだった。

★★★

時は遡る。入学が決まった早乙女学園から一つのダンボールが自宅に届いた。ロゴが刻印され、丁重に包まれたそれをワクワクした気持ちで開けてみれば、そこにはなぜか女の子用の制服が入っていた。可愛らしい黄色のチェック柄ワンピース風スカートに、ネイビーのジャケットと同じ生地でできたリボンまで梱包されている。一緒に開封した母親には着せられそうになり、仕事から帰ってきた父親にも折角なんだし着てみろ、などと悪ノリしてくるので、流石の俺も堪忍袋の尾が切れて、図に乗る両親を諌めるという一悶着があった。そうして、この女子用制服をどうするかについてなんともシュールな家族会議が開催されたのが、5日前の晩だ。試験の時にマークシートで性別書き間違えたんじゃないの、とか、提出したプロフィールの欄にちゃんと男って書いたか、とか茶化され、会議は踊りに踊ったが、最終的には誰か他の女子新入生と制服が取り違えになってるんじゃないか、という妥当な推測に落ち着いた。
もし他の女子新入生のところに、俺の男物の制服が届いているとしたら可哀想だ。早々にこの女物を返却し、男物を貰いに行こう。ということで、入学式3日前に俺は学園に行くことになった。

バスから電車へと乗り継ぎ、駅を降りたら住宅街と坂道を登りきって、ようやく正門へ辿り着く。
学校説明会や試験、オリエンテーションとかの時に学園に来てはいたが、その時は警備員さんの誘導とかがあったから構内で迷うこともなかった。しかし今は誘導の警備員さんは居ないし、こんなバカでかい学園の中、どこに行けばいいのか分からない。
少なくとも9時には学園も開いているだろうと思って来たら、門番さんが厳格な面持ちで佇んでいてなんとなく萎縮する。そういえば早乙女学園は教師陣がほとんど現役芸能人で、ミーハーな人が会いに来てしまうこともある。そのため一般人が学園内に簡単に入ることはできない。そうすると俺は今日中学の制服を身につけているし、一般人カウントされて入れないかもしれない。いや、でも来年入学予定って言えば入れてくれるんじゃないだろうか。

「あら、君、こんなところでどうしたの?」

そうして悩んでウロウロしていると、後ろから声をかけられる。振り返るとそこには月宮林檎がいた。視線が合えば、ナチュラルにこちらに近寄り、微笑まれる。紫のふわっとしたニットに、タイトなブラックのスカートのコーディネートは、バランスが取れていて非常に可愛らしい。月宮林檎は画面の先の人だと思っていたけど、本当に実在するんだな。俺は変な感動を覚えつつ、冷静に言葉を返していた。

「こんにちは。俺、来年度早乙女学園に入学する、といいます」
「あら、こんにちは。私は月宮林檎よ。君、新入生なのね。…どうかしたの?入学式は3日後よ?」
「ああ、そうですけど、そうじゃなくて。俺の制服が…その…」
「?制服がまだ届いてないの?」
「いえ。つい昨日届いたんですが、間違って女性用のものが届いてて」
「あら、ホント?」

月宮先生に事情を説明する。家族におちょくられた話の下りは割愛して、制服が誰かと取り違えになっているかもしれないので、手提げの中身を見せ、交換したいということを伝えた。

「じゃあ私、この学園の関係者だし案内するわ」
「あ、ありがとうございます」
「いいわよ。さっそくシャイニーのところに行きましょ、ちゃん!」
「え、ちゃん?」
「ん?だって、、でしょ。ならちゃんよ」
「いや、えっと…流石にちゃんはちょっと…」
「そう?いいじゃない、減るもんじゃなし。ささっ、行きましょ。シャイニーはさっきまで校長室に居たから」

そうして半ば強制的にちゃん付けを認可させられ、かつ連行される形で腕を組まれる。想像以上にいい匂いがする。俺だって男だ。月宮林檎が男と知ってはいるが、なにせスタイルもいいし美人だし、肌もスベスベで本当に女にしか見えない。役得役得と心の中で唱えつつ、門番の白い目を受け流しながら学園へと歩みを進めた。

まだ誰も居ない学園は、バカみたいにでかいわりに酷く静かで、まるで開演前のテーマパークに来てしまったような場違い感を感じずにはいられなかった。居心地の悪さを覚えつつ、月宮先生に導かれるままに階段を上る。最上階にあたる3階のフロアの奥まった部屋に、一際目立つ校長室のドアと看板があり、月宮先生は俺と組んでいた腕をするりと外すと、道場破りよろしくドアを思いきり開いた。

「シャーイニー!来たわよ〜!」

大きな音を立てて扉がピタリと壁にはりついて、反動すらなく開いたまま静止する。どういう仕組みになってるんだと不思議に思いつつ、俺は中につかつかと入っていく月宮先生の後ろを追いかけた。失礼します、と小声で言い、恐る恐る入る。なるほど、ここがあの伝説のアイドルと呼ばれた男、シャイニング早乙女の居る校長室か。机や調度品など、すべてのものから高級感が漂っている。カーペットは赤いし、なによりソファがフカフカで気持ち良さそうだ。

「…あれ〜。シャイニー居ないのかしら?…うーん、居ないみたいだわ」
「あ、そうなんですか」

だが肝心の本人は居ないらしい。野外の光がしっかりと入り込んだ、明るくてド派手な部屋なのに、妙な重圧を感じるのは気のせいか。俺はほんの少しだけビビりつつも、シャイニングを探して窓辺にかけよった月宮先生に習い、ソファと低いテーブルの間に歩を進めた。

その瞬間。

「…っ!!」

学園からお借りしたスリッパ越しになにかを踏みしめた感触があって、声もなく飛び上がる。ソファに手をついて転倒を回避したはいいものの、何を踏んでしまったのかと慌てて床を見た。

そこにはシンプルな茶封筒が横たわっていた。スリッパを履いていたから大きく変形はしなかったが、若干皺になった様子が見て取れる。まずい。校長室にあるものだからこれはシャイニング早乙女のものだろう。なぜ床に落ちていたのかよくわからないが、踏んでしまった。たまたま落ちていたにしては不自然だが、拾っておいたほうがいいだろう。そんな判断で俺はその封筒を拾った。少し汚れてしまった気がするので、申し訳なさを感じ手で払っておく。

「シャイニー、外にも居ないわね〜。…あら、ちゃん。それどうしたの?」

窓際で外を見ていた月宮先生が振り返った。俺の手にある封筒を見て、不思議そうに首を傾げる。

「…なんかこれ、ここに落ちてました」
「あら、そうなの?シャイニーからのお手紙かしら」

月宮先生の意見ももっともだ。俺はあまり人のものはじろじろ見ない方がいいと思うのだが、シャイニング早乙女から月宮先生への置き手紙だとしたらわからないでもない。
そうして、俺は宛名を見る。早乙女とかいう知らぬ人の名前が書いてあるが、いったい誰だろうか。

ちゃん、なんて書いてある?」

月宮先生に促されるまま、茶封筒の表面に書いてある人物名を読み上げる。

「えーと、…?早乙女みつ「貴様、なぜそれを持っている?」

正確には、読みあげようとしたが最後まで音にすることができなかった。

「…?!」

シャイニング早乙女が俺の手元にあった手紙を電光石火の早業で奪ったのである。首と膝に軽い衝撃を感じた。しかしあの瞬きの一瞬で一体何が起きたというのだ。わけもわからず床に大の字で寝そべって天井を眺めていた。あ、このカーペット思っていたより硬いんだ。そう思ったところで俺は床に叩きつけられたと悟り、同時にシャイニング早乙女のどアップが目の前に来たことで、驚きに身体を縮こませる羽目になる。

「ど、どうしたのシャイニー、なんでそんなに戦闘モードなのよっ」

月宮先生の焦った声が聞こえる。しかしそれも随分遠くに聞こえるのは、心臓がバクバクと音を立てていて、それが脳内に警告のように響き渡っているからだ。

「林檎ちゃんは黙ってくだサーイ」

俺に顔を向けたまま、シャイニング早乙女は月宮先生を制した。プレッシャーがすごくて月宮先生のほうを見ることができないが、おそらく先生は立ち止まった。静まり返った校長室を、己の心臓の音と、壁掛け時計が時を刻む音だけが鳴り響いている。

「ユーはそれを見ましたね?」
「え、あ、いやっ、中身はみてません!」
「ちょっと待って、シャイニー!この子は来年入学の生徒よっ、制服の交換をお願いしに来ただけで、」
「んん〜?来年入学ぅ?」
「そうよ。ねっ、ちゃん!」
「あ、そ、そうです!この制服を男子用に交換してもらいたくて…!」

慌てて俺は、制服が入った手提げを見せた。するとシャイニング早乙女は黙り込んでしまう。黒いサングラス越しとはいえ、穴が開きそうなくらいにこちらを見つめてくるもんだから、居心地が悪い。自分が横たわって相手を見上げる、なんて変な状況も相まって頭の中は正常ではない。そのためか、俺はあまり言わなくても良かったかもしれない言葉を言ってしまうのである。

「あの、手紙は床に落ちていたんで拾っただけで、表しか見てません」
「…ほう、では私の名前は見たと」

この時ほど自分を呪ったことはない。そうだった、そういやこのおっさんの名前はトップシークレットで、それを一度口にすれば表社会から抹消されるとかなんとか、変な噂があるってことを深夜番組でやっていた。その名前を俺はつい今し方、思いっきり本名を目で見たし、挙句途中まで音読した。え、でもこんなことで本当に社会的に抹消されたりするのか。ドッキリでしたとか。でもこれはマジだ。林檎ちゃんがあまりに悲痛な声を出すのだ。

「シャイニー、」

月宮先生の懇願するような声が、静まり返った部屋に響く。外から長閑な鳥のさえずりが聞こえてくるくらいにはシンとしている。シャイニング早乙女は平然としていて、怒っているのかそうではないのか区別がつかない。

「お前、名前は?」
「…です」
「年齢は」
「…15歳、です」
「入学のコースはなんだ」
「さ、作曲家コース、です…」

尋問のような質問をいくつかされて、意図がよくわからないが答えないとまずいことはわかる。あまり正常に働いている気がしない脳のまま返事をすれば、ますます顔を近づけられる。近い。怖いがサングラス越しにシャイニング早乙女の瞳が見える。あれ、なんか想像してたよりつぶらな瞳じゃないか、そう思っていると目の前の男はふっと笑った。そして両脇に腕を入れられて、ぐわっと持ち上げられる。俺は何が起きたか咄嗟には理解できなかったが、気がつくと周囲の景色が90度回って正常な向きになっていたから、立たされたんだとわかる。足に感覚がないけど、立っている。月宮先生が俺に駆け寄ってきた。ぱっと背中を支えられる。

「大丈夫?ちゃん、」

月宮先生のお陰で、俺はようやく、足が震えていて本当は立っているのも精一杯だとわかった。詰まっていた息が戻って、ドッと汗を流した。でもやっぱり、シャイニング早乙女から目を離せない。今思えばそれは、動物の持つ本能的な恐怖のようなものだったのかもしれない。

「…お前が入学の時に出した曲を覚えているか?」

シャイニング早乙女の声色は、先程より昂ぶっていない落ち着いたものだが、俺はそれでも心臓をバクバク言わせながら、縦に何度かうなづいた。月宮先生の手が俺の肩に回されていて、少しだけぎゅっと握られたのを感じて、それでやっと口が開く。

「はい、」

忘れるはずがない。あれは俺が春ちゃんの作曲した曲を耳コピしたものだ。必死になって朧げな記憶を頼りに似せようとしていたが、結局幾つかの音程が正しくない感じのするままの提出だった。知識ほぼゼロから勉強を始めたにしてはなかなかやったものだと、自己満足に満ち溢れた出来のもの。提出した曲といえばそれだ。

「弾いてみろ」
「…えっ?」
「ピアノならここにある」

弾け、そう言われたのだと気がつき、そして同時に試されているのだと気がつく。月宮先生が心配そうにこちらを伺ってくる。
ここで弾いてダメなら、それまでだったということ。でも不思議とそんな気はしない。根拠のない自信がふつふつと湧き上がる。俺は月宮先生の手をそっと肩から外した。不安げに眉を下げている月宮先生に、感謝の気持ちを込めて笑顔を返す。それで俺は闘いに赴く戦士のような気概で、シャイニング早乙女が傍らに控えるグランドピアノの椅子に座った。
深呼吸。目を閉じれば脳裏に過るのは路上ライブでお世話になった先輩や仲間達。それなりに学費のかかる学校なのに、嫌な顔一つせず応援してくれた両親。そして俺の永遠の初恋の相手、七海春歌ちゃん。彼女がいなければ俺は、俺はこんなに何かに打ち込むことも、何かを手放したくないと思ったことはなかった。 だから、この想いすべて、ピアノの旋律に乗せて紡ごう。
そう心で祝詞を囁き、そのまま冷たい鍵盤を深く押し込む。そうして俺は、彼女の作った歌を、曲を奏でた。