何とも幻想的で美しい月が夜空に穴をあけている。俺は重力に従って倒れていた身体を、起き上がらせた。月明かりに照らされ、ぼんやり視界に浮かび上がってきたのは、瓦礫が積み上がって酷く荒れた路地のようなトンネルのような場所だった。人影一つないこの路地は刻々とした闇を沈殿させている。そして俺はその闇の一角に足を棒にして突っ立っていた。この場所に見覚えは無い。と俺は確信を持って言うことができる。デジャヴも何もくそもない。何処だここは。どうしてこうなっている。そもそもこの異常事態の発端はなんだ?
俺は今に至ってしまった原因を探るため、今日の出来事を振り返る。確か今日は丸一日中バイトに駆りだされていた俺。バイトを終えて家に帰ってきて、当然くたくたになった身体を労るためにソファーに横になった。風呂にも入らずに重たい瞼が外界をシャットアウト。その後は冒頭に至るというわけである。
いたく簡単な事だった。そう。これは夢だ。夢なのだ。俺は胸に渦巻いていた闇に一筋の光が射して、いささか晴れやかな気分になった。非現実な状況に置かれていた脳は、疑問が解決するとすっきりした。少し周囲を見渡す余裕ができる。と同時に好奇心が湧きあがる。夢の中でこんなふうに意識がハッキリあるのは滅多にない。なんだか面白い。
この路地、というより瓦礫のトンネルのような道は、ほとんど直線で遮るものが無い。お陰で普通の視力でも、数十メートル先にある明かりに気が付くことができた。俺はその先に歩を進めてみることにした。光は人工的で、おそらく誰か人がいるだろう。足は意のままに前進を始めた。ふと下を見れば、いつの間にか自分は靴を履いていた。服装も見れば今日バイト先に出た時に来ていた服と寸分の違いもなかった。別段不思議には思わなかった。
じゃりじゃりと路地に散らばった砂利のような欠片を踏みながら進む。煌々とした明かりがすぐそこまで来ている。眩しく感じて目を細めた。
明るかったそこは、開けっぴろげになった部屋のように見えた。いや、お世辞にも部屋とは呼べない。この瓦礫道とそこを遮る壁もなければ、窓もない。扉なんてものもない。ただ、打ちっぱなしのコンクリートに窪みがあって、そこに丁度良くコの字の部屋が埋められているようにも見えた。
2メートルほど離れた位置から、ちらりと覗いてみる。薄汚れた木製の質素な机と、同じような年季の入った、くたびれた丸椅子や背もたれ付きの椅子。そして路地同様、壁に沿って天井に当たる部分までうず高く積まれたガラクタのような金属片や何かのパーツ。とにかくそこは異様な雰囲気を放っていた。そしてその山の傍らに、いた。
(人がいる)
後ろ姿だからハッキリとは分からないが、肩幅と身長が男のそれだと思った。黒い髪に明るい色の筋が見えて、その筋に沿って髪の毛が重力に逆らったはね方をしている。妙な髪型だ。と言うより凄く固そうである。がっちがちにワックスで固めたように見えた。
その男はしゃがんだ。ガタンガタンと音を立てながら金属片の山の一部を切り崩す。傍らには黄色いプラスチック製の籠が置かれている。男はその中に何かを入れた。がちゃんという音と同時に金属が接触した。
その後も何度か同じ動きを繰り返す。手にとってまじまじと眺めては、入れたり、山に戻したり。多分選別をしているのだろう。その男は大層熱心にやっているようだった。俺は彼が何を入れたのかちょっと興味が湧いた。ここからでは黄色い籠の中は見えそうにない。面白そうだったので止まっていた足を前に出す。
ジャリ
刹那音がした。男が静寂を保っていた一瞬に、その音は思いのほか響いた。俺は固まる。男は驚いた様子で、バッと勢いよく振り返った。
「…誰だ」
静かに、鋭く刺を放つ声を出したその男と、俺の目線は同じ平行線上にあった。俺は驚いて、多少暗闇に隠れていた身体をその明かりの届く場所まで移動させることにした。
男は無言で立ちあがった。淡い明かりの下、顔がハッキリと浮かび上がる。若く精悍な顔つきに浮かんでいるのは、無感情。やや青みがかった瞳が、僅かに高い位置から俺を射ぬいていた。どうも見た感じ、俺とさほど年齢は変わらないなと思った。
「…ども、」
「……」
何を言ったらいいか分からないまま、無言が俺と男の間に流れた。男は何の反応もなく、微動だにしない。俺は勝手に追いこまれたかのような気分になっていた。カチコチカチコチ。針の、時間を刻む音が耳につく。
「あの、スイマセン。ココ何処ですか?」
「…サテライトだが」
「サテライト…?」
思ったより抑揚もなく、無粋な声で男は答えた。サテライト。これもまた聞き覚えが無いものだった。ただ分かった事は、このようなカタカナ表記の地名は日本にはないだろう、という事ぐらいしかない。でもなんとなく、その事に対して別段疑問は抱かなかった。むしろ、その男の眉間によった皺はなぜ発生したのかというような、そんな些細な事に違和感を覚えていた。
そこで男が俺の姿形を認識していると気づいた。それから、俺はぼんやり、ああ、これは夢じゃないのかもしれないとさえ錯覚した。彼は黙り込んだ。俺も口を開かなかった。また静寂だった。長いような短いようなそれを、俺は酷く不愉快に感じた。脳内で言葉のキャッチボールのための言葉を考え始めて、口を開く。それでも、目の前の男のほうが音を放つのが僅かばかり早かった。
「…お前、ネオ童美野シティの住人か?どうやって此処に来た」
「は―――?」
視界がぐにゃりと歪んだ。目の前の青年の特徴である金のメッシュが、揺れてぐにゃぐにゃしている。なんだか気持ちが悪くなる。また最初と同じように俺が瞼を下ろすと、そのまま意識も闇にフェードアウトする感覚に陥った。
* * *
それから目を覚ますとうって変わって見慣れた天井がその姿を露わにした。一晩の夢にしては変な夢だと思った。今朝起きたばかりのこの瞬間こそ夢の中身を覚えている。が、どうせまた忘れてしまうに違いない。そしてこの夢もまた、陳腐な脳の生産物に違いない。…そんな、妙な概念が頭に絡みついていたせいだ。俺が"この夢"を忘れたのは。
だから、俺が支度を終えてマンションを出る頃には、電車への道のりと今日の昼飯の事が頭の大半を占めていた。
「ここ何処だ」
LAST UP DATE>>10/08/19